ハヤブサ24

九州出身の鉄道ファンです。
現在は関東に在住しています。このブログは主に鉄道系のニュースなどを投稿したり、時々、鉄道で旅したときの日記なども投稿します。 鉄道以外の乗り物も投稿することもたまにはあります。

    カテゴリ: 鉄道


    経営は厳しい。ヨーロッパのようにすれば、イイかもしれません。

    JR西日本が、廃止も含めたローカル線の見直しを行うことを明らかにした。

    長谷川一明社長は2021年2月18日記者会見で、新型コロナウイルスによる社会情勢の変化により、鉄道の利用客が大きく落ち込んでいることに言及。鉄道利用がコロナ前の9割しか戻らなくても柔軟に対応できるよう、構造改革を進める方針を示した。

    その一例として挙げられたのが、利用客が少ないローカル線の見直しだった。

    見直しが行われるローカル線はどこだ?

    長谷川社長が示したJR西日本の方針は、ローカル線を抱える沿線自治体を中心に大きな話題となっている。2月19日島根県の丸山達也知事は長谷川社長の発言を受け「鉄道網の脆弱な島根県にとって非常に大きな問題だ」と述べた。

    今回の記者会見では具体的な線名については言及しなかったものの、2018年には三次(広島県三次市)~江津(島根県江津市)間の三江線が廃止されている。一般的に鉄道事業者は鉄道利用の通信簿として平均通過人員を参考にすることが多い。

    平均通過人員は利用者の1日1キロメートルあたりの人数を表したものだ。参考までにJR西日本が発表している2019年度の平均通過人員を確認してみよう。

    平均通過人員(人/日)が500人/日を割っているJR西日本の路線・区間は以下のとおりだ。

    大糸線(南小谷~糸魚川):102
    越美北線(越前花堂~九頭竜湖): 399
    姫新線(上月~津山):413
    (中国勝山~新見):306
    因美線東津山~智頭):179
    福塩線(府中~塩町):162
    芸備線備中神代~東城):81
       (東城~備後落合):11
       (備後落合~三次):215
    木次線備後落合~宍道):190
    山陰本線(益田~長門市):271
        (長門市~小串、長門市~仙崎):351
    小野田線小野田~居能、雀田~長門本山):444
    美祢線(厚狭~長門市):478

    「いきなり廃止」の可能性は低いが...

    参考までに、2018年に廃止された三江線の平均通過人員は58人/日(2015年度)だった。

    とはいえ、利用客が少ないからと言って「いきなり廃止」とはならないだろう。ただ地元自治体に鉄道施設への負担をお願いする「上下分離方式」や利用客増加への施策が難航した場合は廃止の議論も取りざたされるだろう。

    また富山市を走っていた富山港線のように、別会社の運営によるLRT(次世代型路面電車システム)への転換も考えられる。いずれにせよ、JR西日本内のローカル線をめぐる議論が進むことは確実だ。

    フリーライター 新田浩之)

    発車を待つ紀南方面行き特急「くろしお」


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【JR西日本「ローカル線見直し」の対象は? 鉄道路線の「通信簿」通過人員で考えると...】の続きを読む


    117電車(117けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1979年から製造した直流近郊形電車。 1979年から1986年にかけて、主に老朽化した153の代替用として216両が製造され、1987年の国鉄の分割・民営化時には東海旅客鉄道(JR東海)に72両、西日本旅客鉄道(JR西日本)に144両がそれぞれ承継された。
    73キロバイト (9,766 語) - 2021年3月1日 (月) 18:23


    数を減らしている。

    〜〜国鉄形電車の世界その9 「117系」「211系」「213系」〜〜

     

    スピードランナーといった風貌の117系、国鉄最末期に生まれた211系213系。それぞれ、直流近郊形電車を代表する車両として長らく走り続けてきた。

     

    今回は、“新快速”として東海道山陽本線を走った117系を中心に、今も多くが活躍する211系、車両数は少ないながらもローカル線を走り続ける213系と、国鉄近郊形電車のいまに迫ってみよう。

     

    【はじめに】JR西日本の117系にも徐々に引退の動きが

    大阪出身の友人いわく「新快速はなあ、新幹線よりも速くて安くて便利なんやでぇ」。30年以上も前に聞いた言葉を、今も鮮明に覚えている。関西の人たちにとって、「新快速」は他所の人たちについ誇りたくなる電車ということだったのだろう。もちろん新大阪駅京都駅間のみならば、新幹線のほうが早い。だが、大阪駅京都駅間と広げて見れば侮れない速さと手軽さなのである。

     

    友人が誇らしげに語った「新快速」の電車といえば、そのものずばり117系直流近郊形電車を指したものだったのであろう。1979(昭和54)年に登場、1986(昭和61)まで216両が製造された。117系が登場するまで、新快速には急行形電車の153系が使われていた。急行形ということで乗り心地は良かったものの、昭和30年台の誕生と古く、ボックスシートなどの車内設備が陳腐化しつつあった。

     

    ◆平行して走るライバル社との競争が117系を生み出した

    東海道本線が走る大阪〜京都間には、阪急電鉄京都線京阪電気鉄道京阪本線がほぼ平行して走る。古くから競争がし烈で、私鉄の2線ではすでに転換クロスシートを取り入れた車両が走り、好評を得ていた。そうしたライバル路線との競争に負けないようにと国鉄が生み出したのが117系だった。

    クリーム色のベースブラウンの細帯が入る117系登場時の原色カラー。現在、同色の車両は走っていない 2015年9月22日撮影

     

    117系が誕生するまで、国鉄の通勤形電車、近郊形電車は全国で利用ができる標準的な車両を生み出す傾向が強かった。しかし、関西圏では競争が激しかったこともあり、乗りたくなる魅力を持った電車の開発に乗り出した。そうして生まれたのが117系だった。急行形を上回る乗り心地と、快適な室内設備をかね備え、同じ近郊形電車の113系の最高運転速度が100km/hに対して、117系110km/h(西日本の117系115km/h)とより速く走れるような造りだった。

     

    登場以降、好評となり1999(平成11)年まで20年にわたり新快速として走り続けた。1982(昭和57)年には東海地区にも117系が導入されている。こちらは「東海ライナー」という愛称で走り始めた。

     

    117系が残るのはJR西日本のみに

    国鉄からJRに変わって以降、117系JR西日本144両が、JR東海に72両が引き継がれている。それから30年以上たった117系の現状は……? すでにJR東海では2013(平成25)年3月のダイヤ改正時に定期運用が終了、翌年1月で全車が引退している。

    東海道本線の稲沢駅付近を走るJR東海117系。白地にオレンジ色の帯が巻かれていた。左に愛知機関区が見える 2011年5月22日撮影

     

    残るのはJR西日本の82両(2020年4月1日現在)となっている。まだ“大所帯”なものの、ここ数年、廃車や移動する車両がやや見られるようになってきた。例えば、2019年まで吹田総合車両所日根野支所・新在家派出所には117系は20両が配置(2019年4月1日現在)され、紀勢本線などを走り続けていた。オーシャンブルーに塗装された華やかな姿の117系だったが、翌年までに同車両基地の117系は、引退および、一部が別の車両基地へ移動となった。

     

    今後、JR西日本では経年33年以上たった車両、すなわち国鉄時代に誕生した車両の置換えを行うとしている。そのうち車両置き換えが具体化しているが113系117系で、約170両を新製車両に置換えるとされる。置換え予定の年度は2022〜2025年度とのことだ。

    オーシャンブルーの華やかなカラー紀勢本線などを走り続けてきた和歌山地区の117系2020年で消滅している 2018年10月13日撮影

     

    和歌山地区の117系がわずかな期間で消えたように、置換えが始まると、あっという間に、ということになる。40年にわたり活躍してきた117系も、徐々に消えていきそうな気配だ。最後の“職場”となりそうな2つのエリア117系の活躍ぶりを見ていくことにしよう。

     

    【関連記事】
    残るは西日本のみ!国鉄近郊形電車「113系」を追う

     

    【117系が残る路線①】渋い濃緑色で走る湖西線・草津線の117系

    まずは117系が最も多く走る京都地区に注目してみよう。

     

    ◆車両の現状:京都地区に残る117系は“実質”52両のみに

    京都地区を走る117系はすべて吹田総合車両所京都支所に配置されている。その車両数は56両(2020年4月1日現在)、後に新在家派出所に配置されていた2両が加わり58両になっている。そのうち6両は観光列車「WEST EXPRESS銀河」に改造された車両なので、普通の117系は52両と見て良いだろう。

     

    その多くが300番台だ。300番台は福知山線用に改造された車両で、乗降時間をスムーズにするために、扉付近の転換クロスシートの一部をロングシートに変更していた。福知山線での運行が2000年で終了した後に京都地区へ移っている。

     

    京都地区を走る117系は、以前はクリーム色にブラウンの細帯の117系の原色カラーに塗られた編成もあったものの、その後に地域色の緑色一色に塗り改められている。京都に宇治という茶の産地があるせいか、鉄道ファンからは“抹茶色”とも言われるカラーだ。

    緑一色で走る京都地区の117系。同路線を走る113系に比べて重厚な印象に見える

     

    ◆運用の現状: 6両での運行が多いせいか朝夕の運用がメイン

    京都地区を走る117系湖西線の列車と、草津線の列車に使われている。湖西線の列車は京都駅永原駅間、草津線の列車は主に草津駅柘植駅(つげえき)間を走る。

     

    運用の傾向を見ると、どちらの路線も朝夕の運用が目立つ。これは両区間を走る113系とのかねあいがあるためだ。113系は4両編成で、利用者が少なくなる日中は113系が4両編成で走ることが多い。また113系の場合に朝夕は2編成を連ねた8両で走る運用が多くなる。対して、117系は6両編成がメイン(1編成のみ8両編成)のため、どうしても利用者が多くなる朝夕の運用が増えている。

    湖西線近江高島駅北小松駅間を走る上り列車。朝8時少し前に通る列車で、このあと30分後にも117系運用の上り列車が1本走る

     

    それぞれの路線の運用傾向を詳しく見ると。まず、湖西線京都駅発の下りが6時台〜9時台まで各一本ずつ、以降は14時台〜17時台まで1〜2本ずつ、あとは20時台に2本が走る。行先は近江舞子駅行、または近江今津駅行が目立つ。上りは下りのほぼ折り返し列車だ。

     

    一方の草津線では、113系の運用が多くなっていて、117系はこちらも朝晩の運行が多い。京都駅発(一部は草津駅発)、柘植駅行きは京都駅16時23分以降のみと極端で、22時台までに計5本が走る。117系で運行される列車は夜の柘植駅行きの戻りは翌朝で、柘植駅を早朝5時40分発と、7時42分発、日中はなく、17時以降、21時まで3本の京都駅行き、草津駅行き列車がある。こう見ると、草津線で陽がある時間帯に走る列車は、柘植駅発7時42分、京都駅9時2分着ぐらいに限られるわけだ。

     

    なお、これらの運用は、ダイヤ改正が行われる前日の3月12日までのものなので、ご注意いただきたい。

     

    【117系が残る路線②】岡山地区を走る黄色一色の117系

    ◆車両の現状:2扉の3000番台が主力となって走る

    瀬戸内海に面した山陽3県の中でも、岡山は国鉄近郊形電車がまだ主力として使われている。113系115系、さらに105系213系(後述)が中心だ。117系もその中では少なめながら岡山電車区に24両が配置されている。

     

    岡山電車区の117系は、基本番台が4両×3編成と、100番台が4両×3編成という内訳だ。ちなみに100番台は循環式汚物処理装置付きのトイレを持つタイプだったが、当初に配置された岡山電車区に、同処理装置への対応したシステムが無かった。そのため山口地区へ一度、移動されていた。その後に、トイレの汚物処理装置がカセット式に取り換えられ、岡山へ再び戻ってきている。

     

    塗装は「快速サンライナー」に利用されていたことから、2016年まで専用のサンライナー色で塗られていた。現在は全車が中国地域色の濃黄色に塗り替えられている。

    ↑岡山地区を走る117系は、全車が4両編成。2016年まではサンライナー色の117系も走っていた(右上)が、現在は全車が濃黄色一色だ

     

    ◆運用の現状: 今も「サンライナー」全列車に117系が使われる

    岡山地区の117系の運用を見てみよう。岡山地区の117系は主に山陽本線を走っている。運用範囲は岡山駅三原駅が多い。また赤穂線(あこうせん)にも乗り入れる。そのために、赤穂線に分岐する東岡山駅までは山陽本線を走る。すなわち山陽本線三原駅東岡山駅間の運用のみとなるわけだ。赤穂線内は、播州赤穂駅東岡山駅間で、その先の相生駅まで赤穂線を通り抜ける列車の運用はない。

     

    117系の運用は朝と夕方・晩が多い。早朝から10時台まで下り列車(三原駅方面)が4本、上り列車(岡山駅方面)が4時台から11時台まで7本が走る。日中の運用はない。その後の運用は15時台以降からで、ここでは下り、上りともに快速「サンライナー」の全列車に117系が使われている。岡山地区を走る「サンライナー」は岡山駅福山駅間を走る快速列車だ。ここで117系は、普通車自由席の列車ながら、優等列車として走っているわけだ。「サンライナー」は117系が唯一、輝きを見せる列車と言って良いだろう。

     

    ちなみに赤穂線での運用は朝晩のみで4往復が走る。東は播州赤穂駅まで走る列車が1往復あるものの、他は長船駅(おさふねえき)もしくは西大寺駅までしか走らない。赤穂線内の運用はごく希少となっている。

     

    117系の今後はどうなるのだろう

    前述したように、国鉄形電車の置換え計画がJR西日本からすでに発表されている。113系117系の約170両が新製車両に置換えとあり、その期限は2025年度とされている。

     

    どちらかに配置された113系117系が消滅する。まずは京都地区からと見るのが妥当だろう。吹田総合車両所京都支社には113系が64両、117系が58両(うち6両は「WEST EXPRESS銀河」)が配置され、両形式合わせて計122両となる。

    山陽本線山陰本線などユニークな運行方法で走る「WEST EXPRESS銀河」。117系改造車両を活かした臨時特別急行列車だ

     

    このうち「WEST EXPRESS銀河」に改造された117系だが、この編成は今後、かなりの期間、残ることになるだろう。計画では残り50両強が置き換えられるが、これはやはり岡山地区の113系117系になるかと思われる。117系で最後まで残るのは観光列車の「WEST EXPRESS銀河」のみとなるのだろうか。

     

    【すでに消えた形式】国鉄近郊形電車119系と121系

    ここではやや寄り道となるが、国鉄形近郊列車として活躍し、消えていった電車を抑えておきたい。117系よりも数字が上の電車には119系121系がある。両車両とも、消えたのが近年のことだった。

     

    ◆特殊な事情を持つ飯田線用に造られた119系

    ↑険しい飯田線を走っていた119系飯田線のみならず、中央本線の上諏訪駅へも乗り入れていた 2011年1月30日撮影

     

    飯田線愛知県豊橋駅長野県辰野駅を結び、距離は195.7kmにも及ぶ。険しい中部山岳を縫って越える山岳路線である。一方で、太平洋戦争前に複数の私鉄によって線路の敷設が行われた歴史を持つこともあり、駅間が短くなっている。

     

    同線には旧形国電が長く使われてきたが、老朽化が著しかった。飯田線は勾配があり、距離も長く、また駅間が短いという特殊な事情があり、専用の電車が必要とされた。そこで生まれたのが119系だった。1982(昭和57)年から1983年にかけて57両が新造されている。編成は2両もしくは1両と、閑散区向けの構成だった。119系飯田線導入後に新潟の越後線などへの導入を計画したが、計画は国鉄の財政悪化の影響もあり立ち消えている。

     

    正面の姿は中央に貫通扉があり、左右に窓がある105系デザインを踏襲したもの。3扉で外観も105系に近いものだった。当初は、路線が走る天竜川にちなみ水色ベースに淡い灰色の帯を巻いた。その後にJR東海の標準色のベージュ色にオレンジと緑色の2色の帯に変った。

     

    長年、飯田線の顔として走り続けたが、ちょうど生まれて30年後の2012年3月に引退となっている。廃車となった一部は、えちぜん鉄道に譲渡されて、MC7000形として走り続けている。

     

    ◆国鉄最晩年に登場した四国向け121系

    瀬戸内海を眺めつつ予讃線を走る121系。将来のJR四国の経営を考え、国鉄が最晩年に開発した近郊形電車だった 2017年7月15日撮影

     

    四国は電化工事が最も遅く行われた地域だ。1987(昭和62)年3月23日予讃線高松駅坂出駅間、多度津駅〜観音寺駅間が直流電化されたのが四国初の電化区間となった。瀬戸大橋が誕生し、橋を利用した瀬戸大橋線本四備讃線)が1988(昭和63)年春に開業の予定だった。そのタイミングに合わせて、四国の一部地域の電化が行われた。

     

    合わせて誕生したのが121系だった。電化された1987年3月23日デビューした近郊形電車で、わずか数日後の4月1日に四国の路線が国鉄からJR四国へ移管されている。121系は国鉄から、経営的な基盤が弱いと予想されたJR四国への最後の置き土産となったわけである。

     

    121系は2両×19編成、計38両が製造された。車体は軽量ステンレス製で、正面は貫通扉を持つものの205系常磐線用の207系にも近いスタイル。車体側面は3扉で211系(後述)と同様の姿をしている。いわば、国鉄晩年の標準的なスタイルを踏襲している。車体の帯は青色、もしくは赤色だった。

    121系全車が7200系としてリニューアル改造された。高松近郊区間には欠かせない近郊形電車となっている

     

    121系は長年にわたり走り続けてきたが、ちょうど生まれて30年を機会に2016年から大幅にリニューアル工事に着手。台車や客室の設備などを大幅に変更した。

     

    このリニューアルを機会に形式名も7200系と変更した。2019年2月にリニューアルが完了、元となった121系という形式名が消滅している。121系が劣化の少ないステンレス車体となり、リニューアル化後も走り続けていることは、国鉄の遺産が、JR四国の礎に多いに役立ったと言えるのではないだろうか。

     

    【残る国鉄近郊形電車①】今も大量に残る211系ながら

    ここからは残る国鉄時代に生まれた直流近郊形電車2形式を取り上げておこう。両形式とも、廃車された車両も少なめで、今も多くが走り続けている。とはいえ、後継車両が取りざたされる時代となってきた。

     

    ◆近郊形電車の代表として今も主力の211系

    東海道本線を走るJR東海211系。後ろに313系を連結して走る。JR東海211系は形式を問わず、運行できるように改造されている

     

    211系は国鉄の晩年となる1985(昭和60)年に誕生し、翌年の2月から走り始めた。大都市の近郊路線区間には、長年にわたり113系115系が走り続けてきた。1980年代となり、軽量ステンレス製の車体、ボルタレス台車、界磁添加励磁制御と呼ばれる制御方式が普及してきた。これらのシステムは当初、205系で採用されたシステムだったが、省エネにも結びつき、また使い勝手の良さから、211系という近郊形電車にも同様のシステムを取り入れたのだった。

     

    211系が最初に導入されたのが東海道線首都圏エリアで、1986年3月のダイヤ改正から走り始めている。後に名古屋地区、東北線などを走り出している。国鉄時代からJRになった後も製造が続き、基本番台、1000番台、2000番台、3000番台、5000番台、6000番台を含めて計827両が製造された。

     

    そのままJR東日本JR東海に引き継がれ、今もJR東日本326両、JR東海250両の計576両が残っている。今でこそ、首都圏では、東海道線など第一線を退いたものの、中央本線、高崎地区などのローカル線を走り続けている。車両数を見る限りはまだ盛況と言えるだろう。

     

    とはいえ、後期に造られた車両ですら、すでに30年たつこともあり、後継車両の導入も取りざたされるようになってきた。JR東海の新型315系がその置換え車両にあたる。今すぐに消えることはなさそうな211系だが、数年後からは徐々に消えていくことになるのだろう。

     

    【残る国鉄近郊形電車②】希少車のJR東海とJR西日本の213系

    ◆国鉄最後の新形式が213系だった

    国鉄が最後に設けた形式が近郊形電車の213系だった。導入は国鉄最終年の1987(昭和62)年3月と、それこそ国鉄製造の車両としてぎりぎりの期限に走り始めている。基本となったのは211系で、大きく異なるのは211系が3扉であるのに対して、213系は2扉となっているところである。すなわち、大都市の近郊路線区間で211系が走ったのに対して、ややローカル線区での運用を念頭においている。

     

    213系最初の基本番台は岡山地区へ導入された。今も3両×4本と、2両×7本の計26両が岡山電車区に配置され走り続けている。なお他に213系の2両1編成があり、こちらは観光列車「La Malle de Bois(ラ・マル・ド・ボァ)」に改造され人気となっている。

    伯備線を走る2両編成の213系ステンレス車体に濃淡青色の帯を巻いて走る。ほか正面が真っ平らな切妻そのままの車両も走る

     

    JR西日本の岡山地区以外にも213系を導入されている。導入したのはJR東海で、同社では並走する近鉄名古屋線に対向するために、関西本線名古屋駅四日市駅間などに向けて導入した。こちらは5000番台とされるが、JRに移行後に導入されている。

     

    2両×14本の計28両が新造され、当初は関西本線での運用が続けられたが、今は大垣車両区に配置されているものの、やや車両基地から遠い飯田線を走り続けている。

    飯田線を走る213系。正面は211系とほぼ同じで、側面を見なければ213系と分からない

     

    今回で国鉄が作った近郊形電車の現状紹介は終了とする。次回以降は今も残る国鉄が生み出した交直流電車や特急形電車などの紹介に話を移していきたい。

    新快速として輝き放った国鉄近郊形電車「117系」を追う


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    貴重な物です。

    NO.9293287 2021/03/02 18:10
    ホームから「はみ出る特急」解消目指す駅、高校生は「何度見ても面白いのに」
    ホームから「はみ出る特急」解消目指す駅、高校生は「何度見ても面白いのに」
    記者(27)が兵庫県姫路市から明石市の実家に帰る際は、山陽電鉄(山電(さんでん))の特急を利用する。山陽姫路駅の改札をくぐり、降りる際に便利な最後尾の6両目に座る。停車駅の一つ、大塩駅(姫路市)では、ドアは開かず、窓の外を見ると、6両目はホームからはみ出している。前々から気になっていた光景は「ドアカット」「ドア締切扱い」などと呼ぶらしい。山電に聞いてみた。

    平日昼間の2月19日、大塩駅のホームで取材した。15分に1本の割合で停車する神戸や大阪方面の上りの特急は、6両目がホームからはみ出したまま。先頭から5両目までのドアのみ開く。鉄道写真の愛好家「撮り鉄」の間でも有名な場所だという。

    昔はもちろん、そんなことはなかった。大塩駅は1923年の開業。長らく4両編成の運行だったが、阪神電鉄との直通運転を見据えた輸送力増強で6両編成化し、91年4月から現在の“非常事態”となった。

    姫路方面の下りホームは6両分の長さが確保できたが、上りホームは、下りホームと行き来するための構内踏切があり、さらにホーム両端に一般の踏切があるなど、当初の4両から97年の改良工事で、5両分を確保するのが精いっぱいだった。

    ドアカットは、そもそもどうするのか。山電によると、大塩駅の前の停車駅を出発後、運転士が運転台で鳴らしたブザーの合図で、車掌がドアカット用のスイッチを入れる。そうすれば、6両目のドアは開閉しないように。スイッチの入れ忘れを防ぐため、駅ホーム後方に「扉カット確認」と書かれた表示板で注意を促す。

    乗客に対しても、姫路駅や飾磨駅など..

    【日時】2021年03月02日 14:38
    【ソース】読売新聞オンライン


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    えちごトキめき鉄道でどんな活躍をするのかな?

    えちごトキめき鉄道 鳥塚亮 代表取締役社長は3月1日Yahoo!ニュース個人でJR西日本金沢地区で運用を終了する413系3両を譲り受けると伝えた。

    413系は、おもに1960年代から国鉄がつくり続けた交流直流両用 急行形電車457系グループの機器類を流用して派生した形式。写真は2014年当時、金沢駅構内を取材時に撮影したイメージ画像。

    今回の譲受目的について同社 鳥塚社長は「観光用の急行列車に使用する」と伝えている。

    「今回の413系電車を使用する観光列車は、最小限の設備投資で大きな需要を呼び込もうという判断で決定いたしました」(えちごトキめき鉄道 鳥塚亮 代表取締役社長/Yahoo!ニュース個人)

    同社は今後、保安装置などの更新、各種整備を施し、大型連休が開けたころから営業運転に入れるという。

    こうした譲渡車を導入する背景については、「会社には新車を導入するような資金的余裕はなく、いつまで続くかわからないコロナの影響を考えると、たとえお金があったとしても大きな設備投資は控えなければなりません」(えちごトキめき鉄道 鳥塚亮 代表取締役社長/Yahoo!ニュース個人)とも。

    また、この413系3両譲渡について同社 鳥塚社長は「本件に関しましてJR西日本へのお問い合わせは業務に支障をきたしますのでご遠慮ください」「次のご案内は3月15日ごろ」とも伝えていた。

    えちごトキめき鉄道D51蒸気機関車827号機+ワフ+入換用ディーゼル機がやってきた!
    https://tetsudo-ch.com/10969869.html

    ◆「えちご押上ひすい海岸駅」は3月13日開業、工事の様子をトキ鉄が公開
    https://tetsudo-ch.com/11158902.html

    ◆「雪月花」がしなの鉄道上田駅に乗り入れる「信越紀行」2021年4月実施 「ろくもん」も直江津駅高田駅
    https://tetsudo-ch.com/11233716.html



    (出典 news.nicovideo.jp)

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    満鉄にはスゴい蒸気機関車がありました。


    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア―
    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア―』(名古屋大学出版会)著者:林 采成
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    世界でも最高水準の鉄道技術を誇った満鉄。その鉄道業の全貌を詳細に描き出した力作『東アジアのなかの満鉄』が刊行されました。今回は著者・林先生による書き下ろしの自著解説を特別公開いたします。

    戦前日本は鉄道帝国だった? 満鉄の歴史を読み直す

    拙著『東アジアのなかの満鉄――鉄道帝国のフロンティア』がこのほど出版され、著者としては嬉しい限りであるが、読んでくださった方々からしばしば頂戴するのが、「迫力」という言葉である。もちろんこれは、編集者が選んだカバー図版で、田中靖望氏の「機関車」というあじあ号の力強い写真にもよるところがあるとはいえ、内容的には、これまで考えられてこなかった東アジアという枠組みから、戦前~戦後にかけての満鉄の復元を試みたからであろう。

    戦前日本は鉄道帝国であった

    戦前日本は日清戦争をきっかけに中国から台湾を獲得・領有して帝国となり、日露戦争を契機に朝鮮半島、南満洲、南樺太への影響力を拡大した。それにともない、いち早く鉄道建設にとりかかり、現地の総督府のもとで台湾国有鉄道、朝鮮国有鉄道、樺太国有鉄道を運営した。さらに中東鉄道の南部線を占領し、ロシア帝国の利権から分離して満鉄の設立をみたことで、日本列島から朝鮮半島を経て中国大陸にいたる鉄道ネットワークを構築し、それを基盤として統治・支配を行い、これらの地域から帝国の運営に必要な物資を調達し、さらに開発を進めていくようになる。その後のさらなる戦争により、総力戦となった日中戦争太平洋戦争をつうじて日本勢力下の鉄道ネットワークは中国全域にまで広がり、ついには南方にまで渡っていった。

    このように、戦前日本はまさに戦争とともに鉄道ネットワークの拡大を図りながら、自らの勢力圏を広げていった鉄道帝国であったといえよう。なかでも満鉄は、中国東北部にあって日本帝国が中国大陸へ進出する足場となっており、満鉄自らもそれを意図的に遂行するなど、帝国的膨張を支える鉄道帝国のフロンティアだったのである。

    なぜ鉄道業としての満鉄研究が必要なのか

    筆者は鉄道をライフワークとしているが、朝鮮国有鉄道(『戦時経済と鉄道運営』東京大学出版会、2005年)と華北交通(『華北交通の日中戦争史』日本経済評論社、2016年)を分析したあと、ようやく朝鮮鉄道と華北交通を繋ぐ存在であった満鉄の歴史研究に取り組むべく、まずは残された資料へのアクセスをもとめて、中国東北部各地の档案館(公文書館)を2014年の夏に訪れた。

    当時、中国の近隣諸国との関係はなお協調的であったにもかかわらず、すでに現地の研究環境は厳しくなっており、遼寧、吉林、黒竜江のどこにいっても、外国から訪問する研究者は「敏感」な対象と認識とされるようになっていた。「偽満時代」、なかでも満鉄史料へのアクセスは容易に許されず、筆者はそれまでとは異なる対応に戸惑っていた。現地調査のはずが、偽満皇宮を覗いたりスターリン広場を歩いたりする観光に終わりかねない状況の中、開示されない原資料の復刻版資料を閲覧しようと考え、ハルビン市図書館を訪れることにした。しかし、長大な書架のなかを繰り返し探しまわってみても、満鉄関連資料を見つけることができず、やむなくスタッフに尋ねてみたところ、年配の司書に、それは交通セクションではなく政治セクションにある、そんなことも知らないのか、と戒められてしまった。

    植民地機構としての満鉄のこのような「分類」は、中国側にとっては正当なものではあるが、その政治性の過大評価は、合理的主体として鉄道業を営んだ満鉄の特徴をとらえがたくする恐れがある。もちろん、満鉄は鉄道業だけにとどまらず、さまざまな領域で多角的経営を成し遂げており、さらに国際政治や軍事にも深くかかわったため、それに応じて多面的な姿で描かれがちであるのは理由のないことではない。しかし、それほど儲かったわけでもない多様な活動がなぜ可能であったのかを、本業たる鉄道業に戻って穿鑿する必要があると思う。そして、その本業たる鉄道業の解明こそが、意外にも満鉄研究において、非常に手薄なままだったのである。

    そこで筆者は、技術・労働・拡張・戦後再編という4つの観点から、本書をつうじて、満鉄の「作る鉄道」・「働く鉄道」・「繋がる鉄道」・「残る鉄道」としての、複眼的な歴史像をクローズアップしようとした。

    「作る鉄道」としての満鉄

    鉄道は機械、金属、土木、経済、統計などといった近代科学知識の粋を集めた産物であり、こうした技術を習得するのは、当時としては容易ではなかった。

    そのため、満鉄の設立に際しては日本内地だけでなく、主にアメリカから技術体系を導入してそれを吸収し、さらに満鉄ならではの技術を生み出していった。それがいわゆる「満鉄型」とよばれるものであって、これにより世界水準に到達した満鉄は、車両運営をはじめとする鉄道運営においても、帝国圏鉄道のなかでももっとも高い効率性を実現し、くわえてもっとも優れた収益性をも確立した。これがあったからこそ、あじあ号という斬新でモダンスタイルの特急列車を運行できたのであり、またあまり大した収入源にならなかった多様な事業の展開も可能となった。この技術・運営ノウハウは、満鉄会社の鉄道線から、全満洲鉄道へと伝播され、さらに山海関以西の中国大陸にも広がったのである。

    「働く鉄道」としての満鉄

    鉄道は、労働現場としての観点からみると、運転、営業、保線、土木、工場などの多様な業務に支えられて成り立っており、それゆえ、各部署に多くの鉄道員が配置されなければならない。たとえば、その人数は1945年前半に日本国鉄45万人、台湾国鉄1万9千人、朝鮮国鉄10万7千人、満鉄40万人、華北交通17万5千人にも達した。

    なかでも、満鉄のマンパワーはもっとも複雑な民族構成からなっていた。すなわち、台湾や朝鮮のように、日本人とともに働く現地住民が民族別に単一化されえず、漢族系、ロシア系、朝鮮系、モンゴル系、満族系からなっていた。このように多様な業務・身分・民族に分かれている人々をもって有機的反応を引き起こすべく、「満鉄大家族主義」が導入され、年功的性格をもつ賃金が先駆的に導入されるとともに、さまざまな福利厚生としても具体化されるようになった。また、戦時下には「社員会」を通じてイデオロギー的にも構成員を束ねていくようになる。もちろん、そこに経済的不平等がなかったわけではないものの、生活保障を志向する人的管理が形作られていった。

    「繋がる鉄道」としての満鉄

    鉄道は2本のレールからなる鉄の道として、地域を超えて広がり、さらに国境をまたいで、より広い世界と接続されている。第一次世界大戦中、満鉄は大勢の社員をその拠点たる遼東半島から、ドイツ帝国植民地鉄道であった山東半島の山東鉄道に派遣し、マンパワーの核心を占めるようになった。満洲事変に際しては全満洲の占領鉄道に進出し、さらに朝鮮半島の北鮮鉄道をも委託経営した。こうして、全満洲鉄道および北鮮鉄道を一元化し、満鉄はもはや自社鉄道線の範囲を超えて、人流・物流の両面で、満洲国を日本帝国により強固に組み込んだのである。

    日中戦争の勃発後、姉妹会社として華北交通が設立されると、中国の鉄道システムも満鉄型へと統合されていく。太平洋戦争が勃発すると、船舶の喪失により、大陸重要物資が中国大陸から朝鮮半島を経由して鉄道で日本へと運ばれるようになった。満鉄は大陸鉄道輸送の要をにない、朝鮮、華北、華中の鉄道、さらに日本国鉄とともに、それまでになく、かつ以後にもみられない空前の、東アジア規模での計画輸送を試みたのである。

    「残る鉄道」としての満鉄

    満洲の広大な大地を鉄馬として疾走し、数十万人の人びとを雇用した鉄道は、日本の敗戦とともに消えていったというより、形を変えながら存在し続ける。満鉄はソ連の対日参戦によってソ連軍、国民政府、中国共産党という3つの勢力によって接収され、戦後中国鉄道の技術的前提となった。1945年8月15日の時点で、全中国鉄道の6割以上が、産業施設とともに中国東北部に集中しており、その地域がいちはやくソ連によって占領されたことは、極めて重い歴史的事実であった。中国共産党がこれをめざして全党をあげた移動をおこない、革命の本拠地を構築して内戦で勝利した経緯をみると、毛沢東には先見の明があったと言わざるを得ない。

    とはいえ、中国人側の技術的蓄積は充分とはいえず、満鉄社員の留用やソ連技術者の助力は必須であった。満鉄の植民地的雇用構造により、中国人技術者が育っていなかったことは、戦後中国鉄道にとってのアキレス腱であったともいえよう。この状況を受け、旧満鉄にかわって成立した中国長春鉄道に対する集団的学習が、ソ連の支援下で意図的・集中的に行われたのである。これにより、旧満鉄のDNAが、新中国鉄道にも受け継がれたといえる。

    以上のような満鉄の展開が、中国にとって侵奪の歴史であったことはいうまでもない。しかし一方でそれが意図せざる歴史的結果をもたらしたことも、否応なく認めざるをえない。新中国鉄道は、朝鮮戦争中には北朝鮮の戦時体制を支えて、今日に繋がる東アジアにおける冷戦構造の膠着化にも寄与し、また独自の技術体系の構築にむけて歩み始めた。ところが、社会主義下、西側の技術から遮断され、中ソ対立も激化して技術停滞を余儀なくされると、先進国との技術格差を縮めるのは困難となる。その改善は、改革開放を待たなければならなかった。東アジアは、日本、台湾、韓国、中国のいずれもが、「世界の工場」になっているが、同時に高速鉄道の世界最大の密集地となり、今日の鉄道技術の粋を示すに至っていることは、本書が示した歴史的経緯からみて、注目に値するものであろう。

    [書き手]林采成(立教大学経済学部

    【初出メディア
    ALL REVIEWS 2021年3月2日

    【書誌情報】

    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア―

    著者:林 采成
    出版社:名古屋大学出版会
    装丁:単行本(638ページ)
    発売日:2021-01-20
    ISBN-10:4815810133
    ISBN-13:978-4815810139
    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア― / 林 采成
    戦前日本は鉄道帝国だった? 満鉄の歴史を読み直す


    (出典 news.nicovideo.jp)

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