ハヤブサ24

九州出身の鉄道ファンです。
現在は関東に在住しています。このブログは主に鉄道系のニュースなどを投稿したり、時々、鉄道で旅したときの日記なども投稿します。 鉄道以外の乗り物も投稿することもたまにはあります。

    カテゴリ:鉄道 > ローカル線




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    東京駅でぬれ煎餅やまずい棒!

    千葉県銚子市内を走る銚子電鉄2020年11月東京駅アンテナショップを開店しました。

    JRバス関東×銚子電鉄プロジェクト」の第一弾として、東京駅八重洲高速バスのりば内の売店に銚子電鉄コーナーが出現。ぬれ煎餅やまずい棒、鉄道グッズなどを販売しています。

    売店の営業時間は朝8時から夜20時まで。銚子電鉄は「帰りがけや旅行中にぜひお立ち寄り下さい」としています。

    東京駅八重洲高速バスのりば(画像:銚子電鉄)。


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    【銚子電鉄が東京駅に進出! JRバス関東とコラボでアンテナショップ開店】の続きを読む




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    謎解き。

    おもしろローカル線の旅71 〜〜えちぜん鉄道勝山永平寺線(福井県)〜〜

     

    乗車したローカル線で、これまで見た事がないもの、知らないものに出会う。「何だろう」と好奇心が膨らむ。一つ一つ謎を解いていく、それが楽しみとなる。さらにプラスαの楽しさが加わっていく。えちぜん鉄道勝山永平寺線は、さまざまな発見が楽しめるローカル線。晩秋の一日、謎解きの旅を楽しんだ。

    *取材撮影日:2014年7月23日、2020年11月1日ほか

     

    【関連記事】
    えちぜん鉄道「三国芦原線」10の魅力発見の旅

     

    【謎解きその①】路線名が越前本線から勝山永平寺線となったわけ

    初めに、勝山永平寺線(かつやまえいへいじせん)の概要を見ておきたい。


    路線と距離 えちぜん鉄道勝山永平寺線/福井駅〜勝山駅間27.8km
    *全線単線・600V直流電化
    開業 1914(大正3)年2月11日、京都電燈により新福井駅〜市荒川駅(現・越前竹原駅)間が開業、同年3月11日、勝山駅まで延伸開業
    駅数 23駅(起終点駅を含む)

     

    すでに路線開業から100年以上を経た勝山永平寺線。路線の開業は京都電燈という会社によって進められた。当時、電力会社は今のように寡占化が進んでおらず、電力会社が各地にあった。京都に本社があったのが京都電燈で、関西と北陸地域に電気を供給していた。自前で作った電気を利用し、電車を走らせることにも熱心な会社で、日本初の営業用の電車が走った京都電気鉄道(後に京都市電が買収)のほか、現在の叡山電鉄などの路線を開業させた。

     

    福井県内で手がけたのが現在の勝山永平寺線で、当初は越前電気鉄道の名前で電車の運行を行った。経営は順調だったが、太平洋戦争中の1942(昭和17)年の戦時統制下、配電統制令という国が電力を管理する決定が下され、京都電燈は解散してしまう。

     

    京都電燈が消えた後に京福電気鉄道が経営を引き継ぎ、京福電気鉄道越前本線となった。当時は永平寺鉄道という会社があり、永平寺線という路線を金津駅(現・芦原温泉駅)〜永平寺駅間で営業していた。同線とは永平寺口駅で接続していた。1944(昭和19)年に京福電気鉄道永平寺鉄道を合併し、京福電気鉄道永平寺線としている。この年に永平寺口駅は東古市駅と名を改めた。

     

    当初は路線名が越前本線だったわけだが、勝山永平寺線となった理由は、その後の経緯がある。答えは、次の章で見ていくことにしよう。

     

    【謎解きその②】なぜ2回もいたましい事故が起きたのか?

    京福電気鉄道は、戦後間もなくは順調に鉄道経営を続けていたが、モータリゼーションの高まりとともに、次第に経営が悪化していく。1960年代からは赤字経営が常態化していた。まずは永平寺線の一部区間を廃止した(金津駅〜東古市駅間)。新型電車の導入もままならず、施設は古くなりがちで、安全対策もなおざりにされていた。そんな時に事故が起った。

     

    現在に「京福電気鉄道越前本線列車衝突事故」という名で伝えられる事故。詳しい解説は避けるが、古い車両のブレーキの劣化による破断が原因だったとされる。2000(平成12)年12月17日のこと。永平寺駅(廃駅)方面から下ってきた東古市駅(現・永平寺口駅)行き電車が、ブレーキが効かずに暴走してしまう。そして駅を通り過ぎ、越前本線を走っていた下り列車と正面衝突してしまったのだった。

    永平寺口駅の構内に入線する福井駅行の上り列車。右側にカーブするように元永平寺駅へ延びていた線路跡がわずかに残る

     

    この事故で運転士が亡くなる。ブレーキが効かなくなったことを気付いた運転士は、少しでもスピードが落ちるように、電車の全窓をあけて空気抵抗を高めようとし、乗客を後ろの方に移動させるなどの処置を行った。本人は最後まで運転席にとどまり、電車をなんとか制御しようとしたとされる。おかげで乗客からは死者を出さずに済んだのだが、本人が亡くなるという大変に痛ましい結果となっている。

     

    さらに翌年の6月24日には保田駅〜発坂駅間で上り普通列車と下り急行列車が正面衝突してしまう。こちらは普通列車運転士信号機の確認を怠ったための事故だった。とはいえ、ATS自動列車停止装置)があったら、防げた事故だった。この事故の後に国土交通省から中小事業者に対して補助金が出され、各社の設置が進んだ。2006(平成18)年には国土交通省の省令に、安全設備設置は各鉄道事業者自身の責任で行うことが明記されている。現在は全国の鉄道に当たり前のようにATSが設置されるが、京福電気鉄道をはじめ複数の鉄道会社で起きた痛ましい事故がその後に活かされているわけだ。

     

    この2件の正面衝突事故を重く見た国土交通省はすぐに京福電気鉄道の全線の運行停止、バスを代行運転するように命じた。ところが、両線が運行停止したことにより、沿線の道路の渋滞がひどくなり、バス代行も遅延が目立った。とはいえ京福電気鉄道には安全対策を施した上で、運行再開をさせる経済的な余力が無かった。

     

    そこで福井県福井市、勝山市などの沿線自治体が出資した第三セクター経営の、えちぜん鉄道が設立され、運行が引き継がれた。そして2003(平成25)年の2月にまずは永平寺線をそのまま廃線とし、越前本線は勝山永平寺線に路線名を改称した。7月20日福井駅永平寺口駅間を、10月19日永平寺口駅〜勝山駅間の運行を再開させた。

     

    永平寺線自体は消えたが、沿線で名高い永平寺の名前は路線名として残したわけである。

     

    【謎解きその③】2両編成の電車は元国鉄119系なのだが……?

    ここで勝山永平寺線の主要車両の紹介をしておこう。前回の三国芦原線の紹介記事と重複する部分もあるが、ご了承いただきたい。2タイプの電車がメインで使われる。筆者は三国芦原線では乗れなかった2両編成の電車も、こちら勝山永平寺線で乗車できた。さてそこで不思議に感じたのは……

     

    ・MC6101形

    えちぜん鉄道の主力車両で、基本1両で走る。元は愛知県を走る愛知環状鉄道100系電車で、愛知環状鉄道が新型車を導入するにあたり、えちぜん鉄道が譲渡を受け、改造を施した上で利用している。車内はセミクロスシート。なお同形車にMC6001形が2両あるが、MC6101形とほぼ同じ形で見分けがつかない。MC6001形は1両での運行も可能だが、2両編成で運行させることが多い。なお、他にMC5001形という形式もあるが、1両のみ在籍で、この車両にはあまりお目にかかることがない。

    ↑勝山永平寺線を走るMC6101形電車。日中はこの1両編成の車両がメインとなって走る。沿線の風景は三国芦原線に比べて山里の印象が強い

     

    ・MC7000形
    元はJR飯田線を走った119系えちぜん鉄道では2両編成の運用で、朝夕を中心に運行される。勝山永平寺線では週末の日中にも走ることがある。MC6101形と同じくセミクロスシート仕様だ。

     

    さてMC7000形だが、下記の写真を見ていただきたい。飯田線を走っていたころの119系(小写真)、と2両編成で走るMC7000形を対比してみた。まったく顔形が違っていたのである。

    ↑2両で走るMC7001形。正面の形は119系(左上)とは異なる。MC6101形とは尾灯の形が異なるぐらいで見分けがつきにくい

     

    MC7000形は、119系ベースにはしているが、電動機や制御方式を変更している。119系の当時は制御車にトイレが設けられたが、現在は取り外され空きスペースとなっている。また運転台の位置を下げるなどの改造を行い、正面の姿は元も面影を残していない。MC6101形と、ほぼ同じ姿、いわば“えちぜん鉄道顔”になっている。よって、正面窓に2両の表示がない限り、見分けがつきにくい。

     

    国鉄形の電車も顔を変えれば印象がだいぶ変わるという典型例で、この変化もおもしろく感じた。

     

    【謎解きその④】一部複線区間が今は全線単線となった理由

    さてここから勝山永平寺線の旅を始めよう。起点は福井駅えちぜん鉄道福井駅はJR福井駅の東口にある。福井駅の東口は北陸新幹線の工事の真っ最中で、大きくその姿を変えつつある。新幹線の高架路線に沿って、えちぜん鉄道の高架路線が福井口駅まで延びている。

     

    すでにえちぜん鉄道の路線の高架化改良工事は終了している。福井駅〜福井口駅間が地上に線路があったころとはだいぶ異なる。以前には福井駅〜新福井駅間と、福井口駅からその先、一部区間が複線だった。現在は複線だった区間がすべて単線となり、途中駅には下り上り線が設けられ行き違い可能な構造になっている。興味深いことにえちぜん鉄道では、自社の高架路線が完成するまでは北陸新幹線用の高架路線を、“仮利用”していた。2015年から3年ばかりの間は、新幹線の路線となるところをえちぜん鉄道の電車が走り、自社の高架路線が完成するのを待ったのである。

     

    自社線ができあがってからは、複線区間が単線となった。要は福井駅〜福井口駅間は新幹線を含めて敷地の幅が拡張されたが、えちぜん鉄道の一部は路線の幅を縮小して単線化された。結果として北陸新幹線の開業に向けて用地を一部提供した形となっている。

    福井駅東口にあるえちぜん鉄道の福井駅。高架駅でホームは2階にある。勝山行き列車は日中、毎時25分、55分発の2本が発車する

     

    福井駅発の勝山永平寺線の列車は朝の7〜8時台が1時間に3本を運転(平日の場合)。また9時台〜20時台は発車時間が毎時25分と55分になっている。途中駅でも、この時間帯の発車時刻はほぼ毎時同タイムで運行される。要はパターンダイヤになっている。利用者が使いやすいように配慮されているわけだ。

     

    筆者は福井駅10時25分発の電車に乗車した。なお、福井駅発の電車は平日のみ運転の7時54分発の電車のみが永平寺口駅どまりで、他はみな勝山駅行となっている。急行はないが一部列車は比島駅(ひしまえき/勝山駅の一つ手前の駅)のみを通過するダイヤとなっている。勝山駅まで通して乗車すれば53〜63分ほど。運賃は福井駅〜勝山駅間が770円となる。三国芦原線の記事でも紹介したとおり、全線を往復することを考えたら1日フリーきっぷ1000円を購入すればかなりおトクになる。

    ↑福井口駅の北で三国芦原線(右)と分かれる。ちょうど勝山駅行列車が高架上を走る。右の高架線下にえちぜん鉄道本社と車両基地がある

     

    福井口駅をすぎると分岐を右に入り、列車は勝山駅方面へ向かう。なお、福井口駅の北側にえちぜん鉄道の車両基地があり、勝山永平寺線の車内からもわずかだが基地内が見える。

    ↑高架上から車両基地へ降りる回送電車。右は基地内に停まるMC6001形電車。車庫内には同社名物の電気機関車ML521形も配置される

     

    【謎解きその⑤】さっそく出ました難読「越前開発駅」の読みは?

    ↑福井口駅から高架線を走り勝山駅へ向かう下り列車。高架から地上に降りる坂の勾配標には32.0パーミルとある。結構な急勾配だ

     

    福井口駅から高架線を降りてきた勝山永平寺線の列車。次の駅は越前開発駅だ。この駅名、早速の難読駅の登場です。通常ならば「えちぜんかいはつえき」と読むところ。だが、「かいはつ」ではない。「えちぜんかいほつえき」と読ませる。

     

    越前開発駅の北側に開発(かいほつ)という地域名がある。このあたりは元々原野や湿地帯で、その一帯が開発されたところだとか。「かいほつ」と読ませるのは仏性(仏になることができる性質のこと)を獲得するという仏教用語なのだそう。縁起の良い呼び方がそのまま伝わったということなのだろう。なかなか日本語は奥が深いことを、ここでも思い知った。

    ↑越前開発駅はホーム一つの小さな駅。以前は福井口駅からこの駅まで複線区間となっていて、今もその敷地跡が残る

     

    越前開発駅、越前新保駅(えちぜんしんぼえき)と福井の市街地の中を走るルートが続く。追分口駅付近からは左右の田畑も増えてきて、徐々に郊外の風景が広がるように。越前島橋駅の先で北陸自動車道をくぐる。その先、さらに田園風景が目立つようになる。

     

    松岡駅の付近からは右手に山がすぐ近くに望めるようになり、やがて、列車は山のすそ野に沿って走るように。左手に国道416号に見ながら走る。このあたり九頭竜川(くずりゅうがわ)が生み出した河岸段丘の地形が連なる。志比堺駅(しいざかいえき)がちょうど、段丘のトップにあたるのだろうか。駅も路線も一段、高いところに設けられる。

     

    勝山永平寺線は地図で見る限り平坦なよう感じたが、乗ってみると河岸段丘もあり、意外にアップダウンがある路線だった。

     

    【謎解きの旅⑥】永平寺口駅には駅舎が2つある?さらに……

    志比堺駅を発車すると右から迫っていた山地が遠のき平野が開けてくる。そして列車は下り永平寺口駅(えいへいじぐちえき)へ到着する。この駅で下車する人が多い。現在の駅舎は線路の進行方向左手にあり、こちらに永平寺へ向かうバス停もある。一方で、右手にも駅舎らしき建物がある。こちらは何の建物だろう?

    永平寺口駅の旧駅舎。路線開業時に建てられた駅舎で、映画の男はつらいよのロケ地としても使われた

     

    右手の建物は旧駅舎(現・地域交流館)で勝山永平寺線が開業した1914(大正3)年に建てられたもの。開業当初は永平寺の最寄り駅であり、1925(大正14)年には永平寺鉄道(後の永平寺線)も開業したことにより、乗り換え客で賑わった。

     

    同路線では終点の勝山駅と共に歴史が古く、風格のあるたたずまいで今もその旧駅舎が残されるわけだ。この建物の入り口には映画「男はつらいよ」のロケ地となったことを示す石碑が立つ。1972(昭和47)年8月に公開された第9作「柴又慕情」編のロケ地となり、主人公の渥美清氏やマドンナ役の吉永小百合さんも訪れたそうだ。

     

    さらにこの駅舎は2011(平成23)年には国の登録有形文化財に指定されている。登録後には改修工事も行われ、非常にきれいに管理されている。さて永平寺口駅周辺で気になるのは旧永平寺線の線路跡である。

    永平寺口駅構内には、旧永平寺駅方面へ右カーブしていたころの線路が一部残る。左手奥が現在の勝山永平寺線の線路

     

    永平寺口駅はこれまで4回にわたり駅名を変更している。駅が開業した時は永平寺駅、さらに永平寺鉄道が開業した2年後に永平寺口駅となった。永平寺鉄道と京福電気鉄道が合併した時には東古市駅となった。さらにえちぜん鉄道となった年に、永平寺口駅となった。つまり誕生してから2つめの駅名に戻ったことになる。

     

    さて東古市駅と呼ばれたころまで永平寺線があった。当時の旧永平寺線は東古市駅永平寺駅間6.2kmの路線だった。現在の永平寺口駅から南側、山間部に入っていった路線で、駅構内にその線路跡の一部が残されている。駅の先も旧路線の大半が遊歩道として整備されている。

     

    永平寺線はこの6.2km区間のみでは無かった。永平寺鉄道は金津駅(現・芦原温泉駅)と東古市駅間の18.4kmも路線を開業させていた。同路線の途中にある本丸岡駅と現在の三国芦原線の西長田駅(現・西長田ゆりの里駅)間には京福電気鉄道丸岡線という路線もあった。京福電気鉄道福井県内で大規模な鉄道路線網を持っていたわけである。

     

    とはいえクルマの時代に変化していった1960年台。1968(昭和43)年7月には丸岡線が、1969(昭和44)年9月には永平寺線の金津駅〜東古市駅間があいついで廃線となった。この永平寺線の金津駅〜東古市駅間は、東古市駅永平寺駅間に比べて廃線となったのが、早かったこともあり、現在は駅の北側にわずかに線路のように道路が緩やかに右カーブしているあたりにしか、その名残を見つけることができなかった。

    永平寺口駅前に建つ旧京都電燈古市変電所。煉瓦造平屋建で屋根は切妻造桟瓦葺(きりづまづくりさんがわらぶき)といった構造をしている

     

    永平寺口駅で見逃せないのが、駅前にあるレンガ建ての建物である。さてこの建物は何だったのだろう。

     

    この建物こそ、路線が開業した当時の京都電燈の足跡そのもの。レンガ建ての建物は旧京都電燈古市変電所だったのだ。電気を供給するために路線の開業に合わせて1914(大正3)年に建てられたのがこの変電所だった。和洋折衷のモダンデザインで、当時の電気会社の財力の一端がかいま見えるようだ。同建物も旧駅舎とともに国の有形文化財に指定されている。

     

    最後になったが、永平寺に関してのうんちく。永平寺曹洞宗の大本山にあたるお寺だ。永平寺曹洞宗の宗祖である道元が1244年に建立した。道元はそれまでの既存の仏教が、なぜ厳しい修業が必要なのかに対して異をとなえた。旧仏教界と対立した道元は、越前に下向してこの寺を建立したとされる。

     

    【謎解きその⑦】2つめの難読「轟駅」は何と読む?

    筆者は永平寺口駅でひと休み。古い建物を楽しんだ後は、さらに勝山駅を目指した。しばらく列車は九頭竜川が切り開いた平坦な河畔を走る。永平寺口駅から3つめ。またまた難読な駅に着いた。今度は、漢字もあまり見ない字だ。車が3つ、組み合わさった駅名。さて何と読むのだろう。

     

    車が3つ合わさり「どめき」と読む。ワーッ!これはかなりの難読だ。

    ↑轟駅のホームを発車する勝山駅行き電車。民家風の駅舎には轟駅の案内が掲げられている。この先に同路線特有のシェルターが付く

     

    轟と書いて「とどろき」と読ませる地名はある。轟(とどろき)は音が大きく鳴り響くさまを表す言葉を指す。駅の北側を流れる九頭竜川の流れがやはり元になっているのだろうか。

     

    「難読・誤読駅名の事典」(浅井建爾・著/東京堂出版・刊)によると、「ガヤガヤ騒ぐことを『どめく』ともいい、それに『轟』の文字を当てたものとみられる。」としている。確かに「どめく」(全国的には「どよめく」という言うことが多い)という言葉がある。当て字で轟を当てたのだろうか。ちなみに「どめく」という表現は、九州や四国地方で多く使われていることも調べていてわかった。なんとも謎は深い。

     

    ちなみに地元の町役場にも調べていただいたのだが、答えは「不明」だった。こうした地名を基づく駅名は難しく、明確に分からないことも多い、ということを痛感したのだった。

     

    【謎解きその⑧】ドーム型のシェルターは何のため?

    轟駅の近くにはこの路線特有の装置も設けられていた。勝山駅側の分岐ポイント上にシェルターが設けられている。これはスノーシェルターと呼ばれる装置で、その名のとおり、分岐ポイントが雪に埋もれないように、また凍結しないように守る装置だ。えちぜん鉄道の勝山永平寺線には轟駅〜勝山駅間で計4か所に設けられている。

    ↑轟駅近くにあるスノーシェルターポイントを雪から守るために設けられる。横から見るとその形状がよく分かる(左上)

     

    筆者は福井県内の福井鉄道福武線で同様のシェルターを見たことがある。とはいえポイントのみを覆う短いスノーシェルターは、希少で、全国的には少ないと思われる。青森県を走る津軽鉄道などにも同タイプがあったと覚えているが、津軽鉄道の場合は雪よりも季節風除けの意味合いが強い造りだった。

    ↑勝山永平寺線は意外に坂の上り下りが多い。小舟渡駅近くでは山が九頭竜川に迫っていることもあり電車は山肌をぬうように走る

     

    【謎解きその⑨】小舟渡駅の先から見える美しい山は?

    やや広がりを見せていた地形も、越前竹原駅を過ぎると一変する。進行方向右手から山が迫り、山あいを走り始めるようになる。そして左手すぐ下に九頭竜川を見下ろすようになる。

     

    小舟渡駅も難読駅名の一つだろう。「こぶなとえき」と読む。駅前にはすぐ下に九頭竜川の流れがある。このあたり九頭竜川は両岸が狭まって流れている。橋が架かっていなかった時代には、多くの小舟を並べてその上に板を渡して、仮設の橋を架けて渡ったとされる。よって小舟で渡ったという地名になったのだろう。こうした橋は舟橋とも呼ばれ、九頭竜川では他にも同タイプの橋が使われていたことが伝えられている。

    ↑小舟渡駅近くを走る勝山行電車。九頭竜川がすぐ真下に見える。奥には1921(大正10)年に開通した小舟渡橋が架かる

     

    さて小舟渡駅から先は進行方向、左手をチェックしたい。このあたりからの九頭竜川と山々の風景が沿線の中で最も美しいとされる。訪れた日はあいにく好天とは言いきれなかったが、先に白山連峰が望めた。冬になると路線のちょうど正面に大きなスキー場が見える。こちらはスキージャム勝山で関西圏から多くのスキーヤーが駆けつける人気のスキー場でもある。

    ↑小舟渡駅の近くから見た九頭竜川と白山の眺め。路線の一番のビューポイントで、同乗するアテンダントさんからの案内もある

     

    【謎解きその⑩】勝山駅の先に線路がやや延びているが

    小舟渡駅から九頭竜川を見つつ保田駅(ほたえき)へ。この駅からは勝山市内へ入り平野部が広がり始める。勝山盆地と呼ばれる平野部でもある。九頭竜川は勝山盆地で大きくカーブする。流れは勝山の先では東西に流れるが、勝山から上流は南北に流れを変る。勝山永平寺線の線路は九頭竜川の流れに合わせてカーブ、川の西岸沿いを走る。

     

    一方、勝山の市街は九頭竜川の東岸が中心となっている。街の賑やかさは列車に乗っている限り感じられない。終点の勝山駅は街の中心から勝山橋を渡った西の端に位置している。なぜこの位置に駅が造られたのだろう。

    ↑勝山駅の駅舎は1914(大正3)年築の建物。国の登録有形文化財に指定されている。右上はわずかに延びる大野方面への線路跡

     

    勝山駅の先にわずかに残る線路にその理由が隠されている。1914(大正3)年3月11日に勝山駅まで延伸開業した。その1か月後には勝山駅から先の大野口駅(後に京福大野駅まで延伸)まで路線が延ばしている。要は路線が開業して間もなく勝山駅は途中駅となったのである。

     

    大野市の中心は九頭竜川の西岸にある。そのため勝山の中心部へ九頭竜川に橋をかけて電車を走らせることはなかった。南にある大野を目指したために、こうした路線の造りになったわけだった。大野には路線開業当初に鉄道線がなく、利用者も多かった。しかし、1960(昭和35)年に国鉄の越美北線(えつみほくせん)が開通する。そのため当時の越前本線の利用者が激減、1974(昭和49)年には勝山駅〜京福大野駅間が廃線となる。勝山駅の南に残る線路は大野まで延びていた旧路線の名残だった。

    ↑勝山市内には福井県恐竜博物館があり、勝山駅から路線バスが運行されている。駅前広場には恐竜が、またホームには恐竜の足跡も

     

    【謎解きその⑪】勝山駅前に保存されている黒い車両は?

    終点の勝山駅で鉄道好きが気になるのが駅前広場に保存される車両ではないだろうか。この車両はテキ6形という名前の電気機関車。開業当初に導入した車両はみな非力だったため、京都電燈が1920(大正9)年に新造した車両で、貨車を牽引する電気機関車であり、また貨物輸送車として織物製品や木材を載せて運んだとされる。海外製の主要部品が使われていたとはいえ、その後に誕生した国産電気機関車よりも前の時代の車両で、いわば日本に残る最古級の国産電気機関車といって良いだろう。

     

    本線での運用が終了した後も、福井口の車両基地での入換え作業などに使われていた。その後に勝山駅に移され動態保存され、短い距離だが動かすことができるように架線も張られている。走る時にどのような音を奏でるのか一度、見聞きしてみたいものである。

    ↑屋根付の施設で動態保存されるテキ6形。後ろには貨車ト61形を連結している。建物には同車両の写真付の案内も掲示されている

     

    福井県ソースカツに越前おろしそばが名物。勝山駅前の「みどり亭」では一緒に味わえる福井名物セット(850円)が人気。昼食に最適だ

     

    時間に余裕があれば福井県恐竜博物館は訪れておきたいところ。勝山永平寺線の車内でも同博物館帰りと思われる家族連れの姿が見受けられた。そしてランチには、福井名物のソースカツや越前おろしそばを、ぜひ味わってみていただきたい。

    不思議がいっぱい? えちぜん鉄道「勝山永平寺線」11の謎解きの旅


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    久大本線(きゅうだいほんせん)は、福岡県久留米市の久留米駅から大分県大分市の大分駅に至る九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。「ゆふ高原線」の愛称がある。 大分県九重町と由布市の境にある分水嶺の水分峠より西側は筑後川(三隈川)とその支流の玖珠川に沿って、東側は大分川に沿って九州を横
    53キロバイト (5,648 語) - 2020年10月18日 (日) 12:41




    (出典 news.mynavi.jp)


    復旧する。

    ゆふいんの森イメージ 写真:HAYABUSA / PIXTA

    JR九州は28日(水)、令和2年7月豪雨で被災した久大本線について、2020年度内の全線運転再開を目指し復旧工事を進める方針を示した。

    久大本線久留米~大分間(141.5km)を結ぶ鉄道路線。沿線には日田や由布院などの観光地もあり、特急「ゆふ」「ゆふいんの森」などが走る。

    同社の7月13日付の発表によると、令和2年7月豪雨で豊後中村~野矢間の「第二野上川橋りょう」が流失。その他にも橋脚の傾斜、トンネルや線路への土砂流入、盛土流出など計145件の被害を確認したという。10月現在も豊後森駅~庄内駅間ではバス代行が続く。

    画像は7月13日付で発表されたJR九州リリースから

    同社は河川管理者である大分県と、国からの助言も踏まえ復旧方法に関する協議を進めてきた。JR九州青柳社長は、「コロナ禍にあえぐ観光地の復興に少しでもお役にたてるよう、しっかりと復旧工事を進め、一日も早い復旧と久大本線沿線の復興に向けて取り組んで参ります」と述べた。

    鉄道チャンネル編集部



    (出典 news.nicovideo.jp)

    【久大本線は2020年度内の運転再開目指す JR九州発表 令和2年7月豪雨で被災】の続きを読む


    日高本線(ひだかほんせん)は、北海道苫小牧市の苫小牧駅から様似郡様似町の様似駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(地方交通線)である。 王子製紙の関連会社であった苫小牧軽便鉄道(1913年(大正2年)10月1日開業)と日高拓殖鉄道(1924年(大正13年)9月6日開業)という2つの軽便鉄道(軌間:762
    141キロバイト (16,365 語) - 2020年10月27日 (火) 06:49




    (出典 tk.ismcdn.jp)



    廃止「予定日」は現在のところ2021年11月ですが……。

    JR北海道2020年10月27日(火)、日高本線の鵡川~様似間116.0kmについて、国へ鉄道事業廃止届を提出したと発表しました。

    日高本線室蘭本線苫小牧駅北海道苫小牧市)から海沿いを走り様似駅(同・様似町)に至る長さ146.5kmの鉄道路線です。1937(昭和12)年8月に全通しました。このうちおよそ8割を占める鵡川~様似間は、2015年1月以降、高波や豪雨、台風により盛土や橋の流出などが相次ぎバスによる代行輸送が続いています。

    JR北海道2017年から沿線自治体に対し、復旧の断念とバスなどへの転換に向けた協議を進めてきました。今年10月に協議がまとまり、廃止についての同意が得られたということです。

    廃止日は2021年11月1日の予定ですが、JR北海道は次のような注記を付けています。

    「届け出後、鉄道事業法第28条の2第2項の規定に基づき北海道運輸局の主催で意見の聴取が行われます。弊社としてはその中で、鉄道事業法第28条の2の規定に定められている廃止日の繰上を実施したい旨の陳述を行い、繰上が認められれば同年4月1日(最終運行日:同年3月31日)に廃止予定日を繰り上げます」

    なおJR北海道によると、モータリゼーションの進展や沿線人口の減少などにより、日高本線を利用する人が、JR北海道が発足した1987(昭和62)年度と比べておよそ3分の1に減少。収支も年間11億円の赤字(2014年度)になっているといいます。

    日高本線の駅を発着するキハ40形ディーゼルカー(2012年10月、恵 知仁撮影)。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【日高本線「鵡川~様似」2021年11月廃止へ 同年4月前倒しも視野 JR北海道 】の続きを読む


    白新線(はくしんせん)は、新潟県新潟市中央区の新潟駅から新潟県新発田市の新発田駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。 管轄(事業種別)・区間(営業キロ) 東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者) 新潟駅 - 新発田駅 27.3km(新潟駅 - 上沼垂信号場間(1
    25キロバイト (2,823 語) - 2020年9月21日 (月) 05:09



    (出典 tabinori.net)


    歴史がある。

    おもしろローカル線の旅68 〜〜JR東日本白新線新潟県)〜〜

     

    新潟駅と新発田駅を結ぶ白新線はくしんせん)。特急列車に観光列車、貨物列車が走る賑やかな路線である。これまでは車両を撮りに訪れた路線であったが、今回は複数の途中駅で降りて、駅周辺をじっくりと歩いてみた

     

    すると、これまで気付かなかった同線の新たな魅力が見えてきたのだった。白新線でそんな再発見の旅を楽しんだ。

    *取材撮影日:2018年3月3日、2019年7月6日、2020年10月18日ほか

     

    【関連記事】
    東日本最後の115系の聖地「越後線」−−新潟を走るローカル線10の秘密

     

    【白新線の謎①】なぜ路線名が白新線なのだろう?

    初めに白新線の概要を見ておきたい。

    路線と距離 JR東日本白新線新潟駅〜新発田駅(しばたえき)27.3km
    *複線(新潟駅〜新崎駅間)および単線・1500V直流電化
    開業 1952(昭和27)年12月23日日本国有鉄道により葛塚駅(くずつかえき/現・豊栄駅)〜新発田駅間が開業、1956(昭和31)年4月15日、沼垂駅(ぬったりえき/現在は廃駅)まで延伸開業
    駅数 10駅(起終点駅を含む)

     

    まずは、この路線の最大の謎から。路線名はなぜ白新線と付けられているのか、白新線の「白」はどこから来たのか、そこから見ていこう。

     

    まず、路線計画が立てられたところに、白新線と名付けられた理由がある。路線の計画が立てられたのは1927(昭和2)年のこと。「新潟県白山ヨリ新発田二至ル鉄道」という路線案が立てられた。白山と新発田を結ぶ路線なので白新線となったのである。

     

    白山とは、現在の越後線白山駅のことだ。計画が立てられた年は、ちょうど柏崎駅と白山駅を結ぶ越後鉄道が、国有化されて越後線となった年である。国は、越後線の新潟方面の終点駅だった白山駅と、新発田駅を結ぶ路線の計画を立てたのだった。

     

    だが、そこに立ちはだかるものがあった。新潟市を流れる信濃川である。信濃川日本一の長さを誇る河川であり、当時の河口部は川幅も広く、水量も豊富だった。鉄道にとって越すに越されぬ信濃川だったわけである。

    ↑昭和初期と現代の信濃川の流れを比べると、昭和初期の信濃川は現在の3倍近くの川幅があった。旧信越本線ルートも今と異なっていた

     

    1929(昭和4)年に大河津分水(おおこうづぶんすい)という信濃川の水を途中で日本海へ流す流路が作られ、新潟市内を流れる信濃川の水量が大幅に減った。その後、川の南岸が主に改修され川幅が狭まり、ようやく越後線信濃川りょうを架けることが可能となった。とはいえ越後線の路線が新潟駅まで延ばされ旅客営業が始まったのは1951(昭和26)年のこと。この年、ようやく信濃川りょうを生かして、新潟駅と関屋駅(白山駅の隣の駅)間に列車が走ったのだった。

     

    とはいえ白新線は、まだ開業していない。白新線の開業を困難にしていたのも大河の存在だった。

    新潟駅からは信濃川りょうを渡った最初の駅が越後線白山駅(左上)だ。白新線白山駅と新発田駅を結ぶ予定で計画が立てられた

     

    【白新線の謎②】開業してから60年と意外に新しい理由は?

    越後線がようやく新潟駅まで開業した翌年の1952(昭和27)年の暮れ、白新線の葛塚駅(現・豊栄駅)と新発田駅の間が開業している。新潟駅側からではなく、新発田駅側から路線が敷設されていったわけである。白新線の残り区間、葛塚駅〜新潟駅間、正式には沼垂(ぬったり)駅〜葛塚駅間が開業したのは4年後の1956(昭和31)年4月15日のことだった。

     

    新潟市新潟県の北部や庄内地方、秋田への幹線ルートの1部を担う路線だけに、この開業年の遅さは不思議にも感じる。そこには鉄道の敷設を妨げる大きな壁があった。

    白新線のなかでひと足早く開業した葛塚駅(現・豊栄駅)。南口駅前には路線開業を祝う碑や当時のことを伝える案内などがある

     

    新潟平野には信濃川とともに大河が流れ込む。阿賀野川(あがのがわ)である。阿賀野川は、群馬県福島県の県境を水源にした一級河川。途中、只見川などの流れが合流し、河川水流量は日本最大級を誇る。実際、新潟市内を流れる河畔に立ってみるとその川の太さ、河畔の広さにびっくりさせられる。この水量の豊かさから、古来、水運が盛んで、鉄道が開業するまでは会津地方の産品はこの川を使い運ばれていた。

     

    そんな阿賀野川が鉄道を敷設する上で難敵となった。阿賀野川を越える鉄道路線としては羽越本線(当時は信越線)の阿賀野川橋りょうの歴史が古い。1912(大正元)年、新津駅〜新発田駅間が開業に合わせて設けられた。全長1229mという長さがあり、当時としては全国最長の橋となった。現在の白新線の橋りょうよりも上流にあるにもかかわらずである。

     

    架橋技術が今ほどに進んでいない時代、大変な工事だったに違いない。国鉄(当時は鉄道省)は下流に白新線の2本目の橋を架けることはためらったようだ。とはいえ、1940(昭和15)年には橋の着工を進めていた。ところが、翌年に太平洋戦争に突入したこともあり、資材不足となり、橋脚ができたところで、建設中止に追い込まれている。

    ↑長さ1200mと、在来線ではかなりの長さを持つ白新線阿賀野川橋りょう。河畔が広く川の流れはかなり先へ行かないと見えない(右上)

     

    阿賀野川橋りょうの建設が再開したのは大戦の痛手からようやく立ち直り始めた1953(昭和28)年のこと。橋脚がすでに造られていたので、翌年には架橋工事が完了している。戦前に無理して進めていた工事が、後に役立ったわけである。そうして白新線の全線が1956(昭和31)年に完成にこぎつけた。当初、単線で造られた阿賀野川橋りょうだが、1979(昭和54)年には複線化も完了している。

     

    【白新線の謎③】走る車両はここ5年ですっかり変ってしまった

    本章では走る車両に注目したい。走る車両に謎はないものの、実は5年前と、今とでは、ことごとく走る車両が異なっている。複数の車両形式が走る線区で、ここまで徹底して車両が変わる線区も珍しいのではないだろうか。写真を中心に見ていただきたい。まずはここ最近まで走っていて、撤退した車両から。

     

    ◆白新線から撤退した車両

    485系〜 
    国鉄が1968(昭和43)年から製造した交流直流両用特急形電車。交流50Hz、60Hz区間を通して走れ便利なため、全国で多くが使われた。白新線では特急「いなほ」として、また改造され快速「きらきらうえつ」として使われた。「いなほ」の定期運用は2014年7月まで、翌年に臨時列車の運行も終了している。快速「きらきらうえつ」は2019年12月までと、ごく最近までその姿を見ることができた。

     

    115系
    国鉄当時に生まれた近郊用直流電車で、JR東日本管内では近年まで群馬地区、中央本線なども走った。現在、越後線など新潟エリアに少数が残るのみとなっている。白新線からは2018年3月の春のダイヤ改正日に撤退している。

     

    EF81形式交直流電気機関車
    かつては日本海縦貫線の主力機関車として活躍した。ローズピンクの色で親しまれたが2016年3月のダイヤ改正以降は定期運用が無くなり、富山機関区への配置も1両のみとなっていて、運用が消滅している。

    ↑少し前まで白新線を走った車両たち。すべて国鉄形で115系越後線で、またEF81は九州で姿を見かけるのみとなっている

     

    ◆白新線を走る現役車両

    次に現役の車両を見ていくことにしよう。

     

    E653系〜 
    特急「いなほ」として運用される交流直流両用特急形電車。以前は常磐線の「フレッシュひたち」として走っていたが、2013(平成25)年に定期運用を終了。転用工事が行われた上で、同年から「いなほ」として走り始めた。2014年7月から「いなほ」の定期列車すべてがE653系となっている。

     

    E129系〜 
    新潟地区専用の直流電車で、座席はセミクロスシートロングシートが車内半分を占めていて、混雑時にも対応しやすい座席配置となっている。

     

    白新線のほぼすべての普通列車がこの形式で、2〜6両と時間に合わせ編成数も調整されている。白新線では新潟駅〜豊栄駅間の短区間を運転する列車が多いが、そのほか、北は羽越本線村上駅まで、西は越後線吉田駅、内野駅、また信越本線新津駅などに乗り入れる列車も多く走る。

     

    キハ110系〜 
    白新線では米坂線米沢駅への直通列車、快速「べにばな」として運行。新潟発8時40分、戻りは新潟駅21時25分着で走る。

    ↑現在、白新線を走る旅客用車両3タイプと貨物用機関車白新線を走り抜ける貨物列車はすべてEF510形式が牽引している

     

    現在、走る車両はみなJR発足後の車両だけに鉄道ファンとしては物足りないかも知れない。とはいうものの希少車両も走っている。希少な車両ならば、やはり見たい、乗りたいという人も多いことだろう。白新線の希少車両といえば、まずはE653系特急「いなほ」の塗装変更車両だろう。U106編成が海の色をイメージした「瑠璃色」に、U107編成は日本海の海岸で自生するハマナスの花をイメージした「ハマナス色」に塗られている。ともに青空の下では栄えるカラーとあって、この車両の通過に合わせてカメラを構える人も目立つ。

    E653系いなほ」のハマナス色編成が名物撮影地、佐々木駅〜黒山駅間を走る。右上は瑠璃色編成

     

    ほか希少車両を使った列車といえば、主に週末に走る臨時快速列車「海里(KAIRI)」。HB-E300系気動車が使った観光列車で2019年10月に登場した。下り列車は新潟駅10時12分発と、白新線内では早い時間帯に通過する。ほとんどの運行日が酒田駅行きだが、秋田駅まで走る日もある。上りは酒田駅15時発、新潟駅18時31分着。上越新幹線に乗継ぎもしやすい時間帯に走っていることが、この列車の一つの魅力となっている。

    ハイブリッド気動車を利用した観光列車「海里」。4両編成で車内では地元の食材を使った食事も楽しめる(食事は要予約)

     

    【白新線の謎④】変貌する新潟駅。そして万代口は……

    さて、前置きが長くなったが白新線の旅を進めよう。起点は新潟駅。いま新潟駅は大きく変ろうとしている。筆者はほぼ半年ごとに新潟駅を訪れているが、毎回、変化しているので面食らってしまう。

     

    大きく代わっているのは、在来線ホームの高架化が進んでいること。上越新幹線ホームと同じ高さとなり、同一ホームで、特急「いなほ」との乗換えができるようになり便利になっている。ほか在来線ホームも徐々に高架化され、地上に残る線路もあとわずかとなっている。

     

    一方で、新潟の玄関口ともなっていた、北側の万代口(ばんだいぐち)が大きく変っている。信濃川に架かる萬代橋側にあることにちなみ名前が付けられたこともあり、新潟を象徴する駅舎でもあった。10月9日からは移転して仮万代口改札となった。これから旧駅舎は取り壊されることになる。

     

    予定では今後、鉄道線の高架化が終えた2023年には駅下に新潟駅改札口が集約される予定。また高架橋下には、バスステーションが作られ、万代口と南口の別々に発着していたバスも駅下からの発着となる。とともに万代口は万代広場、南口には南口広場が整備され、万代口という愛着のある名称は消えていく。長年、親しまれてきた名称だけに、ちょっと寂しい気持ちにもなる。

    ↑1958(昭和33)年に現在の場所に移転した新潟駅。万代口駅舎は2020年秋から撤去工事が始められている 2019年7月6日撮影

     

    さて寄り道してしまったが、白新線の列車に乗りこもう。E129系電車の運用が大半の白新線だが、この日はキハ110系で運行される8時40分発の快速「べにばな」に乗車する。新潟地区ではキハ40系はすでに引退、磐越西線気動車も電気式気動車のGV-E400系が多くなってきたこともあり、新潟駅では通常の気動車を見かけることが少なくなってきた。

     

    そんなキハ110系の車内は、座席が5割程度うまるぐらい。ディーゼルエンジン音をBGMに高架駅を軽やかに出発した。

     

    【白新線の謎⑤】上沼垂信号場から白新線の路線が始まるのだが

    左下に残る地上線を見ながら高架線を走るキハ110系。しばらくすると地上へ、右へ大きくカーブして上越新幹線の高架橋(同路線は新潟新幹線車両センターへ向かう)をくぐると、いくつかの線路が合流、また分岐する。ここが上沼垂(かみぬったり)信号場だ。正確には、ここまでは信越本線白新線重複区間で、ここから分岐して“純粋な”白新線の線路へ入っていく。

     

    この信号場、合流、分岐が忙しく続き、鉄道好きにはわくわくするようなポイントだ。新潟方面から乗車すると、まず右にカーブした路線に、左から築堤が近づいてくる。草が茂り、いかにも廃線跡のようだ。ここは旧信越本線の路線跡で、かつての旧新潟駅へは、この路線上を列車が走っていた。途中、旧沼垂駅の先に引込線跡も残るなど、廃線の跡を、今もかなりの場所で確認することができる。

     

    その次に合流するのが信越貨物支線の線路。焼島駅(やけじまえき)という貨物駅まで向かう貨物専用線だ。現在は新潟貨物ターミナル経由で、東京の隅田川駅行の貨物列車が1日1便、焼島駅から出発している。ちなみにこの路線の牽引機は愛知機関区に配置されたDD200形式ディーゼル機関車となっている。

    ↑新潟方面(手前)から見た上沼垂信号場。列車はここから分岐をわたり白新線へ入る。左手の線路が信越貨物支線、左の高架は上越新幹線

     

    列車は左へポイントをわたり、白新線へ入る。しばらく信越本線と並走するが、より左へカーブすると、いよいよ白新線独自の路線へ。その先、合流、分岐は続き、鉄道好きとしては気を抜けないところだ。進行方向右手、信越本線の線路が徐々に離れていくが、信越本線の線路との間に新潟車両センターがある。E653系の「いなほ」「しらゆき」、そしてE129系が多く停まっている。

     

    さらに走ると、右手から白新線の線路に近づき、またぐ線路が1本ある。こちらは信越本線から新潟貨物ターミナル駅へ入る貨物列車用の線路となる。というように、目まぐるしく線路が合流、分岐、交差をくりかえして、次の東新潟駅へ向かう。

     

    【白新線の謎⑥】東新潟駅ではやはり進行方向左手が気になります

    さて白新線の最初の駅、東新潟駅。進行方向左手には側線が多く設けられ、貨物列車が停められている。さてここは?

     

    こちらはJR貨物の新潟貨物ターミナル駅日本海側では最大級の大きさを誇る貨物駅だ。車窓から見ても見渡す限り、貨物駅が広がる。貨物列車好きならば、東新潟駅の下りホームは、それこそ貨物列車の行き来が手に取るように見える、至福のポイントと言えそうだ。

     

    さらに東新潟駅の先には、機関庫があり、日本海縦貫線の主力機関車EF510の赤や青の車両が休んでいる様子が望める。

    白新線の線路の北側には新潟貨物ターミナル駅が広がる。線路沿いよりもむしろ眺めが良いのは東新潟駅の下りホームからだ

     

    【白新線の謎⑦】大形駅の先、並行する築堤は果たして?

    新潟貨物ターミナル駅の広がっていた線路が再び集まり、白新線に合流すると間もなく次の大形駅(おおがたえき)に到着する。この先は、また進行方向の左側に注目したい。走り出して間もなく線路と並行して、築堤が連なる。さてこの築堤は何だろう、もしかして

     

    いかにも前に線路が敷かれていたらしき築堤である。実際に下車して確認すると白新線公園という名前の公園となっており、築堤の上は遊歩道と整備されていた。スロープまで設けられ、整備状況が素晴らしい。ここは旧線跡を利用した公園で、阿賀野川河畔まで連なっている。

    ↑大形駅から新崎駅方面へ歩くと、路線に並行して旧線を利用した公園がある。同公園は阿賀野川河畔近くまで整備、小さな橋も残る

     

    この旧線は、白新線が開通した当初に使われていた、阿賀野川橋りょうまで連なる線路跡で、現在の路線は、複線化するにあたって線路を南側にずらして敷かれたものだった。その旧線跡をきれいに公園化しているわけである。

     

    ただし、この堤、阿賀野川に最も近づく築堤の先は、手すりに囲まれ、そこから下へ降りることができないという不思議な造りだった。この造りに疑問符が付いたものの、廃線となり草が茂り寂しい状態になるよりも、こうした再利用されていることは大歓迎したい。

     

    そして阿賀野川の堤防に登ると、そこから広がる河畔が望める。河原は阿賀野川河川公園として整備され、市民の憩いの広場として活かされていた。

     

    【白新線の謎⑧】黒山駅から延びる引込線は何線だろう?

    大形駅へ戻り、白新線の旅を続ける。水量豊富な阿賀野川を渡り、次の新崎駅(にいざきえき)へ。新崎駅の先からは単線となり、次第に田園風景が広がるようになる。米どころ新潟ならではの光景だ。早通駅(はやどおりえき)、豊栄駅(とよさかえき)と、駅からかなり遠くまで住宅地が広がっている。豊栄駅までは、列車の本数も多いため、新潟市の中心部へ通うのにも便利ということもあり、住宅地化されているのだろう。

     

    豊栄駅から先は朝夕を除き、列車本数が1時間に1本という閑散区間に入る。列車本数に合わせるかのように、住宅も減っていき、一方で水田が多く広がるようになる。そして次の黒山駅へ着く。この駅、構造がなかなか興味深い。

    ↑黒山駅の構内を望む。白新線の線路・ホームの横に側線があるが、この側線の先、藤寄駅まで新潟東港専用線が延びている

     

    下りホームに沿って側線が何本か並行に敷かれている。側線があるものの、貨車は停まっていない。単に線路があるのみ。気になったので下車してみた。ぐるりと北側へまわってみると、白新線から離れ、1本の引込線が延びている。さてこの路線は?

     

    黒山駅分岐新潟東港専用線という名称が付いた路線で、藤寄駅(ふじよせえき/聖籠町)まで2.5kmほど延びている。新潟東港の開港に合わせて造られた路線で、開業は1969(昭和44)年のこと。路線の開業とともに新潟臨海鉄道株式会社が創設された。しかし、大口の顧客だった新潟鐵工所が経営破綻したことなどの理由もあり、2002(平成14)年に新潟臨海鉄道は解散となってしまう。

     

    その後は、路線の短縮を経て、現在は新潟県が所有する路線となり、JR貨物が運行を行う。列車は、新潟鐵工所の鉄道車両部門などを引き継いだ新潟トランシスが製造した新車、および、新潟東港から海外へ譲渡される車両の輸送などが主体となっている。

    ↑黒山駅近くの黒山踏切には踏切の両側に簡易柵が設けられていた。踏切の案内には「新潟東港鉄道」の文字が記されている(右上)

     

    列車が運行するのは稀なため沿線の踏切には簡易柵が設けられ路線に進入できないようになっていた。線路は雑草に覆われる様子もなく、いつでも列車が走れるように保持されていた。ちなみに白新線を走る観光列車の「海里」が誕生した時にも、新潟トランシス製ということもあり、同線を走って白新線へ入線している。

     

    列車運行が珍しく、しかもその運転日は明かされないこともあり、同線を走る列車を出会うことは、至難の業となっているようだ。

     

    【白新線の謎⑨】黒山駅の裏手にある「黒山駅」の表示はさて?

    黒山駅の周辺をぐるりと回っていて、ちょっと不思議な光景に出くわす。駅の裏手の道沿いから駅側を望むと、小さな建物に「黒山駅」の表示が。“あれ〜、ここから駅へ行けるのだろうか?”。

    ↑黒山駅の北側にある謎(?)の「黒山駅」の表示。裏手を通る道沿いの建物にある駅案内で、知らないと間違えて入っていきそうだ

     

    この表示、JR貨物の黒山駅を表す表示で、JR東日本の黒山駅を示すものではない。したがって、この表示の場所から駅ホームへ入ることはできない。知らないと、間違えてしまいそうだが、もちろんこの地区に住む人は皆が知っていることでもあるし、また駅の北側に民家がないため問題にならないのだろう。都会だったらとても考えられない駅の表示だと感じた。

     

    【白新線の謎⑩】撮り鉄の“聖地”佐々木駅を再訪する

    黒山駅の次は佐々木駅だ。この付近になると駅間も広がり、豊栄駅〜黒山駅〜佐々木駅それぞれの駅間は3kmと距離が離れる。なお黒山駅までは新潟市内、次の駅の佐々木駅は新発田市内の駅となる。

     

    この佐々木駅。鉄道ファンの中には同駅で降りた人も多いのではないだろうか。駅から徒歩で10分ほどの稲荷踏切。この踏切から太田川まで白新線の線路が大きくカーブ、水田よりもやや高い位置を走るため、全編成が車輪まで見える非常に“抜け”の良い場所となる。架線柱も片側だけに立ち撮影の邪魔にならない。さらにアウトカーブ、インカーブ、両方が撮影できるとあって、白新線ナンバーワンの人気撮影地となっている。

    ↑稲荷踏切から貨物列車を撮る。写真の851列車は2018年3月で廃止。現在、白新線を日中に走る貨物列車が少ないのがとても残念だ

     

    筆者も2年ぶりに訪れてみた。以前は115系が撤退間際ということもあり、多くのファンが集まっていた。が、2年後は……。それでも私以外に2名の撮影者が訪れ構図作りに興じていた。この場所は、自分の好きなポイントで構図作りができることも人気の理由だろう。

     

    このポイントは、気兼ねせずに撮影ができる。手前には刈り取りが終わった水田、周りも見渡す限り水田が広がる。水田越しに飯豊連峰・朝日連峰などの山々が遠望でき、気持ちの良い撮影時間となった。

     

    【白新線の謎⑪】終点・新発田駅で駅近辺を歩いてみたら……

    佐々木駅に戻り、終点の新発田駅を目指す。列車の時刻はちょうど1時間おきなので、予定作りもしやすい。佐々木駅の次の駅は西新発田駅。この駅は駅前にショッピングモールがあり、乗り降りする人が多い。黒山駅や佐々木駅と比べると、同じ路線の駅なのだろうかと思うほどだ。

     

    西新発田駅と過ぎて、しばらく走ると、右から1本の線路が近づいてくる。この線路が羽越本線で、同線が近づいてくると、新発田駅がもうすぐであることが分かる。新潟駅から普通列車に乗車すると約40分で新発田駅に到着する。

     

    新発田駅は西側の正面口しか無いが、久々下車してみると駅の形が大きく変っていることに気付いた。調べると2014(平成26)年の11月に現在の姿にリニューアル。城下町のイメージをした、なまこ壁の駅舎に改良工事をされていた。

    なまこ壁の装いをほどこした現在の新発田駅。右上は2014年までの新発田駅の旧駅舎

     

    さて、新発田駅では戻る列車まで時間があるので、駅の周辺を歩いて回った。駅の東口へ、地下通路を通って向かう。そして北側へ。

     

    地図で事前に見てみると、駅の北から東へと、非常にきれいにカーブした道路があって、気になったのである。このカーブは何の跡なのだろう。

    ↑新発田駅近く、現在は公道として使われる赤谷線の廃線跡。この先で大きくカーブして赤谷へ向かう。なお今は赤谷行きバスが出ている(左下)

     

    新発田駅からはかつて、赤谷線という支線が出ていた。路線距離は18.9kmと長めの支線だった。カーブした道はこの赤谷線の跡だった。

     

    赤谷(新発田市赤谷)へはかつて鉄鉱石輸送用の専用線が敷かれていた。その路線を活かして1925(大正14)年に開業したのが赤谷線だった。白新線よりも、かなり前に開業していたわけだ。新発田駅から途中駅が5駅。終点の東赤谷駅の手前にはスイッチバックがあり、列車はスイッチバックをした上で、駅に入線していた。

     

    駅の手前に33.3パーミルという急勾配があったためとされる。調べてみると東赤谷駅の蒸気機関車用の転車台は現在、大井川鐵道の千頭駅(せんずえき)に移設され役立てられていた。

     

    赤谷線は1984(昭和59)年に全線が廃止されたが、以前に同線で使われていた施設が、その後に別の場所で活かされていたと聞いてうれしくなった。今となっては適わぬ夢ながら、一度、乗ってみたかったローカル線である。

    ↑新発田駅の東側にあるセメント工場には、今は使われていない引込線の線路がそのままの状態で残されていた

     

    赤谷線の廃線跡を探したものの勝手が分からず駅の東側から遠回りをしてしまった。だが、思わぬ発見も。駅の東側に今や使われない線路が延びていた。錆びついた線路が残り、終端にはレトロな線路止めも。セメント工場への引込線跡だった。今もセメント会社は稼動していたが、羽越本線からは線路はすでに途切れていて、引込線は機能していなかった。

     

    地方を訪ねると、こうした引込線の跡が残るところがある。新発田駅のように、県の中心、新潟駅から40分の距離の駅近くにも、こうした使われない線路が残されている。今回の白新線の旅では、光と陰の部分を見たようで、ちょっと複雑な気持ちにさせられた。

     

    なお筆者が訪れた日に、新発田市内の観光施設で熊の出没騒ぎがあった。羽越本線の月岡駅から1kmほどのところ、白新線の黒山駅へも6kmほどの距離にあたる。この秋は、熊の出没が多く取りざた沙汰されている。民家が多い場所にも出てきている。甲信越や、東北、北陸地方などで沿線を歩く時には、熊鈴などの防御グッズを必ず携行して出かけることをお勧めしたい。

    「白新線」‐‐11の謎を乗って歩いてひも解く


    (出典 news.nicovideo.jp)

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