ハヤブサ24

九州出身の鉄道ファンです。
現在は関東に在住しています。このブログは主に鉄道系のニュースなどを投稿したり、時々、鉄道で旅したときの日記なども投稿します。 鉄道以外の乗り物も投稿することもたまにはあります。

    カテゴリ:鉄道 > 雑学


    満鉄にはスゴい蒸気機関車がありました。


    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア―
    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア―』(名古屋大学出版会)著者:林 采成
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    世界でも最高水準の鉄道技術を誇った満鉄。その鉄道業の全貌を詳細に描き出した力作『東アジアのなかの満鉄』が刊行されました。今回は著者・林先生による書き下ろしの自著解説を特別公開いたします。

    戦前日本は鉄道帝国だった? 満鉄の歴史を読み直す

    拙著『東アジアのなかの満鉄――鉄道帝国のフロンティア』がこのほど出版され、著者としては嬉しい限りであるが、読んでくださった方々からしばしば頂戴するのが、「迫力」という言葉である。もちろんこれは、編集者が選んだカバー図版で、田中靖望氏の「機関車」というあじあ号の力強い写真にもよるところがあるとはいえ、内容的には、これまで考えられてこなかった東アジアという枠組みから、戦前~戦後にかけての満鉄の復元を試みたからであろう。

    戦前日本は鉄道帝国であった

    戦前日本は日清戦争をきっかけに中国から台湾を獲得・領有して帝国となり、日露戦争を契機に朝鮮半島、南満洲、南樺太への影響力を拡大した。それにともない、いち早く鉄道建設にとりかかり、現地の総督府のもとで台湾国有鉄道、朝鮮国有鉄道、樺太国有鉄道を運営した。さらに中東鉄道の南部線を占領し、ロシア帝国の利権から分離して満鉄の設立をみたことで、日本列島から朝鮮半島を経て中国大陸にいたる鉄道ネットワークを構築し、それを基盤として統治・支配を行い、これらの地域から帝国の運営に必要な物資を調達し、さらに開発を進めていくようになる。その後のさらなる戦争により、総力戦となった日中戦争太平洋戦争をつうじて日本勢力下の鉄道ネットワークは中国全域にまで広がり、ついには南方にまで渡っていった。

    このように、戦前日本はまさに戦争とともに鉄道ネットワークの拡大を図りながら、自らの勢力圏を広げていった鉄道帝国であったといえよう。なかでも満鉄は、中国東北部にあって日本帝国が中国大陸へ進出する足場となっており、満鉄自らもそれを意図的に遂行するなど、帝国的膨張を支える鉄道帝国のフロンティアだったのである。

    なぜ鉄道業としての満鉄研究が必要なのか

    筆者は鉄道をライフワークとしているが、朝鮮国有鉄道(『戦時経済と鉄道運営』東京大学出版会、2005年)と華北交通(『華北交通の日中戦争史』日本経済評論社、2016年)を分析したあと、ようやく朝鮮鉄道と華北交通を繋ぐ存在であった満鉄の歴史研究に取り組むべく、まずは残された資料へのアクセスをもとめて、中国東北部各地の档案館(公文書館)を2014年の夏に訪れた。

    当時、中国の近隣諸国との関係はなお協調的であったにもかかわらず、すでに現地の研究環境は厳しくなっており、遼寧、吉林、黒竜江のどこにいっても、外国から訪問する研究者は「敏感」な対象と認識とされるようになっていた。「偽満時代」、なかでも満鉄史料へのアクセスは容易に許されず、筆者はそれまでとは異なる対応に戸惑っていた。現地調査のはずが、偽満皇宮を覗いたりスターリン広場を歩いたりする観光に終わりかねない状況の中、開示されない原資料の復刻版資料を閲覧しようと考え、ハルビン市図書館を訪れることにした。しかし、長大な書架のなかを繰り返し探しまわってみても、満鉄関連資料を見つけることができず、やむなくスタッフに尋ねてみたところ、年配の司書に、それは交通セクションではなく政治セクションにある、そんなことも知らないのか、と戒められてしまった。

    植民地機構としての満鉄のこのような「分類」は、中国側にとっては正当なものではあるが、その政治性の過大評価は、合理的主体として鉄道業を営んだ満鉄の特徴をとらえがたくする恐れがある。もちろん、満鉄は鉄道業だけにとどまらず、さまざまな領域で多角的経営を成し遂げており、さらに国際政治や軍事にも深くかかわったため、それに応じて多面的な姿で描かれがちであるのは理由のないことではない。しかし、それほど儲かったわけでもない多様な活動がなぜ可能であったのかを、本業たる鉄道業に戻って穿鑿する必要があると思う。そして、その本業たる鉄道業の解明こそが、意外にも満鉄研究において、非常に手薄なままだったのである。

    そこで筆者は、技術・労働・拡張・戦後再編という4つの観点から、本書をつうじて、満鉄の「作る鉄道」・「働く鉄道」・「繋がる鉄道」・「残る鉄道」としての、複眼的な歴史像をクローズアップしようとした。

    「作る鉄道」としての満鉄

    鉄道は機械、金属、土木、経済、統計などといった近代科学知識の粋を集めた産物であり、こうした技術を習得するのは、当時としては容易ではなかった。

    そのため、満鉄の設立に際しては日本内地だけでなく、主にアメリカから技術体系を導入してそれを吸収し、さらに満鉄ならではの技術を生み出していった。それがいわゆる「満鉄型」とよばれるものであって、これにより世界水準に到達した満鉄は、車両運営をはじめとする鉄道運営においても、帝国圏鉄道のなかでももっとも高い効率性を実現し、くわえてもっとも優れた収益性をも確立した。これがあったからこそ、あじあ号という斬新でモダンスタイルの特急列車を運行できたのであり、またあまり大した収入源にならなかった多様な事業の展開も可能となった。この技術・運営ノウハウは、満鉄会社の鉄道線から、全満洲鉄道へと伝播され、さらに山海関以西の中国大陸にも広がったのである。

    「働く鉄道」としての満鉄

    鉄道は、労働現場としての観点からみると、運転、営業、保線、土木、工場などの多様な業務に支えられて成り立っており、それゆえ、各部署に多くの鉄道員が配置されなければならない。たとえば、その人数は1945年前半に日本国鉄45万人、台湾国鉄1万9千人、朝鮮国鉄10万7千人、満鉄40万人、華北交通17万5千人にも達した。

    なかでも、満鉄のマンパワーはもっとも複雑な民族構成からなっていた。すなわち、台湾や朝鮮のように、日本人とともに働く現地住民が民族別に単一化されえず、漢族系、ロシア系、朝鮮系、モンゴル系、満族系からなっていた。このように多様な業務・身分・民族に分かれている人々をもって有機的反応を引き起こすべく、「満鉄大家族主義」が導入され、年功的性格をもつ賃金が先駆的に導入されるとともに、さまざまな福利厚生としても具体化されるようになった。また、戦時下には「社員会」を通じてイデオロギー的にも構成員を束ねていくようになる。もちろん、そこに経済的不平等がなかったわけではないものの、生活保障を志向する人的管理が形作られていった。

    「繋がる鉄道」としての満鉄

    鉄道は2本のレールからなる鉄の道として、地域を超えて広がり、さらに国境をまたいで、より広い世界と接続されている。第一次世界大戦中、満鉄は大勢の社員をその拠点たる遼東半島から、ドイツ帝国植民地鉄道であった山東半島の山東鉄道に派遣し、マンパワーの核心を占めるようになった。満洲事変に際しては全満洲の占領鉄道に進出し、さらに朝鮮半島の北鮮鉄道をも委託経営した。こうして、全満洲鉄道および北鮮鉄道を一元化し、満鉄はもはや自社鉄道線の範囲を超えて、人流・物流の両面で、満洲国を日本帝国により強固に組み込んだのである。

    日中戦争の勃発後、姉妹会社として華北交通が設立されると、中国の鉄道システムも満鉄型へと統合されていく。太平洋戦争が勃発すると、船舶の喪失により、大陸重要物資が中国大陸から朝鮮半島を経由して鉄道で日本へと運ばれるようになった。満鉄は大陸鉄道輸送の要をにない、朝鮮、華北、華中の鉄道、さらに日本国鉄とともに、それまでになく、かつ以後にもみられない空前の、東アジア規模での計画輸送を試みたのである。

    「残る鉄道」としての満鉄

    満洲の広大な大地を鉄馬として疾走し、数十万人の人びとを雇用した鉄道は、日本の敗戦とともに消えていったというより、形を変えながら存在し続ける。満鉄はソ連の対日参戦によってソ連軍、国民政府、中国共産党という3つの勢力によって接収され、戦後中国鉄道の技術的前提となった。1945年8月15日の時点で、全中国鉄道の6割以上が、産業施設とともに中国東北部に集中しており、その地域がいちはやくソ連によって占領されたことは、極めて重い歴史的事実であった。中国共産党がこれをめざして全党をあげた移動をおこない、革命の本拠地を構築して内戦で勝利した経緯をみると、毛沢東には先見の明があったと言わざるを得ない。

    とはいえ、中国人側の技術的蓄積は充分とはいえず、満鉄社員の留用やソ連技術者の助力は必須であった。満鉄の植民地的雇用構造により、中国人技術者が育っていなかったことは、戦後中国鉄道にとってのアキレス腱であったともいえよう。この状況を受け、旧満鉄にかわって成立した中国長春鉄道に対する集団的学習が、ソ連の支援下で意図的・集中的に行われたのである。これにより、旧満鉄のDNAが、新中国鉄道にも受け継がれたといえる。

    以上のような満鉄の展開が、中国にとって侵奪の歴史であったことはいうまでもない。しかし一方でそれが意図せざる歴史的結果をもたらしたことも、否応なく認めざるをえない。新中国鉄道は、朝鮮戦争中には北朝鮮の戦時体制を支えて、今日に繋がる東アジアにおける冷戦構造の膠着化にも寄与し、また独自の技術体系の構築にむけて歩み始めた。ところが、社会主義下、西側の技術から遮断され、中ソ対立も激化して技術停滞を余儀なくされると、先進国との技術格差を縮めるのは困難となる。その改善は、改革開放を待たなければならなかった。東アジアは、日本、台湾、韓国、中国のいずれもが、「世界の工場」になっているが、同時に高速鉄道の世界最大の密集地となり、今日の鉄道技術の粋を示すに至っていることは、本書が示した歴史的経緯からみて、注目に値するものであろう。

    [書き手]林采成(立教大学経済学部

    【初出メディア
    ALL REVIEWS 2021年3月2日

    【書誌情報】

    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア―

    著者:林 采成
    出版社:名古屋大学出版会
    装丁:単行本(638ページ)
    発売日:2021-01-20
    ISBN-10:4815810133
    ISBN-13:978-4815810139
    東アジアのなかの満鉄―鉄道帝国のフロンティア― / 林 采成
    戦前日本は鉄道帝国だった? 満鉄の歴史を読み直す


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    (出典 pds.exblog.jp)


    そのようなこともあったんですね。

    2020年新型コロナの影響で中止が相次いでいる修学旅行。本来は学校の先生だけでなく、鉄道会社側も様々な工夫を凝らして専用列車を運行しています。時々見かける「修学旅行列車」に関するお話です。

    複数の学校が「集約臨」に「相乗り」

    2020年新型コロナの影響で修学旅行の中止も相次ぎ、行先表示に「修学旅行」と掲げた団体専用列車を見る機会も少なくなっています。こうした修学旅行、実は行先などにもルールがあり、鉄道会社はその輸送に応えるノウハウを蓄積してきました。

    具体的な目的地は学校ごとに決定しますが、教育委員会訓令によると、小学校は「全行程500km程度で夜行移動を伴わない1泊2日」、中学校は「全行程1200km程度かつ車中泊は1泊までの3泊4日」と、移動距離および日程が決められています。

    この範囲内で「教育的な目的地」となると、首都圏発であれば日光や京都など、ある程度場所が絞られていきます。

    複数の学校で目的地がある程度重複するのであれば、移動の際に修学旅行専用の列車を仕立て、一度に児童や生徒を輸送すると効率がよくなります。そこで学校側は、修学旅行の日程を近隣の学校どうしで調整し、鉄道会社は「集約臨」と呼ばれる臨時列車を設定、複数の学校の児童生徒を「相乗り」させて修学旅行の輸送にあたります。

    修学旅行は年中行事なので、毎年だいたい同じ時期、同じ区間に需要が生まれます。そのため、著名な観光地であれば集約臨のダイヤはあらかじめ設定されているか、繁忙期に運転される臨時列車のダイヤを集約臨に流用するといったことが行われます。

    新幹線の場合も基本的には同じです。たとえば関東エリア中学校であれば、「関東地区公立中学校修学旅行委員会」が複数の学校と日程を調整し、1列車あたり1000名以上になるようします。

    東海道新幹線「こだま」の13・14号車は指定席にもなる

    2021年度の中学校を例に挙げると、5月7日から7月9日にかけて741校、計10万9040人の児童や生徒が、東京駅7時48分頃発の「のぞみ287号」および10時24分頃発の「のぞみ321号」のダイヤを専用臨時列車とし、関西方面の修学旅行に出かける予定です。

    一方、日程や人数の関係から1000名以下の催行となってしまう場合もあります。この場合は、定期列車の一部を団体用に貸し切る「混乗」という形をとります。

    前述の関東にある公立中学校の例でいえば、春と秋に修学旅行を実施する学校は、東京駅7時00分頃発の「のぞみ203号」に混乗するとしています。また関東地区の場合、東北・北陸方面への修学旅行を実施する学校は21校で2986名と少ないため、東北・北陸新幹線においては修学旅行専用列車の設定はなく、すべて定期列車に混乗する形となっています。

    首都圏以外のケースでは、たとえば東海道新幹線こだま」の停車駅などから修学旅行で利用する場合、「こだま自由席の一部を指定席に変更し、修学旅行輸送にあてるケースもあります。季節によって「こだま」の13・14号車が自由席だったり指定席だったりする理由のひとつが修学旅行にあるわけです。

    ところで、これら修学旅行専用列車の運賃は団体割引が適用され、JRの場合は中学生以上が普通運賃から5割引、小学生以下は小児運賃から3割引、教職員や付添人は普通運賃から3割引となります。なお、割引対象は運賃のみで、新幹線を利用する場合の特急料金は割り引かれません。

    国鉄には修学旅行に特化した車両があった

    修学旅行は原則として、鉄道の繁忙期を避け、ダイヤも車両も比較的余裕がある時期に催行されるため、在来線を利用する場合は一般的に、普段の定期運用に入っていない「波動用」と呼ばれる車両が使われます。ただし、かつての国鉄には明確に、修学旅行の輸送を目的とした155系159系167系といった車両がありました。

    特に155系は1両当たり100名を着席させるという目的から、座席は通路を挟み2+3、横5列のボックスシート。1人当たりの座席幅はたいへん窮屈なものでしたが、夜行でも眠りやすいよう座席にヘッドレストが設けられたり、ボックス長は急行形と同じ1460mmとして奥行きが確保されたりするなど、最大限の配慮がなされていました。

    国鉄のこれらの車両は、新幹線による修学旅行一般化したことで役目を終えていますが、京都、奈良、伊勢といった歴史的な観光地を沿線に持つ近畿日本鉄道は、古くから修学旅行用を想定した車両を所有し、現在も団体用として修学旅行に運用しています。

    一方、関東の私鉄では、東武鉄道が日光や鬼怒川方面へ修学旅行専用列車を運転したことがありますが、こちらは定期列車にも使われる300型や350型が使われました。

    修学旅行は学生生活の思い出の中でも大きなウェイトを占めるイベントです。学校の先生や鉄道会社、旅行エージェンシーは学生たちの素敵な思い出になるよう、車両や座席の手配に尽力しています。

    神奈川県の児童や生徒を乗せて日光に向かう集約臨。現在は185系やE257系500番台などで運行される(2006年7月、児山 計撮影)。


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    (出典 pds.exblog.jp)


    時刻表があれば、うまい具合にスルーできます。

    2020年4月から5月にかけて新型コロナ対策の緊急事態宣言が出され、戦後初ともいえる「都道府県をまたぐ移動の自粛」が呼びかけられ、鉄道各社の判断による減便や観光地の閉鎖が行われた。これらの自粛要請6月19日をもって取りやめとなったが、戦時中にも「不要不急」の旅行が取り締まられた時代があった。

    その締め付けは昨今の自粛要請の比ではなく、1940年頃から1945年の敗戦まで数年をかけて移動の自由を制限されていった。その間の出来事を調べていくと、現代との類似点も見つかる。

    貨物輸送最優先、旅行は「不要不急」

    1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、世は戦時色が強くなっていくが、まだこの時期は旅行への自粛ムードは強くなかった。というのも1940年には東京オリンピックと皇紀2600年を控えており、五輪こそ中止になったものの修学旅行などの団体旅行は盛況、特に神社や陵墓が多い関西は皇紀2600年で盛り上がった。

    それでも戦線は拡大し続け、鉄道への負担が増していく。軍需輸送に対応するためには貨物列車の増発が必要だが、線路容量には限界がある。ゆえに国鉄は旅客列車を削減しなければならなくなる。これが不要不急の旅行の自粛につながるというわけで、長距離の移動を自粛すべきというムードが徐々に形成されていった。道路事情が劣悪だった当時、陸上の公共交通は旅客・貨物とも鉄道が圧倒していたが、繁忙期に運転されていた臨時列車が運転されなくなり、団体旅行の統制も始まる。

    国鉄(鉄道省)はどのような手段をとったか、『日本国有鉄道百年史』や当時の新聞記事をもとに調べてみると、具体的には「値上げ」「切符の発売制限」「列車の削減」「許可証の発行」である。

    まず、運賃の値上げは、戦費調達のための「通行税」の新設という形で1940年4月1日に運賃・料金の値上げが行われる。物価上昇なども理由ではあるものの値上げは繰り返され、1942年には急行料金・寝台料金が1割~5割(等級による)の大幅値上げが行われた。以後1944年、45年と段階的に値上げされていく。

    乗車券の発売制限は、1940年に100㎞以下の急行列車の切符の制限が始まったのを嚆矢とする。当初は年末年始などの繁忙期に限って発売枚数を限定するやり方で始まったが、次第に対象の列車の拡大や、列車の指定席化が行われた。1941年12月8日太平洋戦争開戦後は貨物列車の一層の増発が必要になり、特急・急行列車の削減が続いた。このように戦時中の旅客サービスは縮小一辺倒で、切符を買うには長時間の行列が常態化、乗れても通勤列車並みのすし詰めという密の状態が日常茶飯事だった。切符を仲介するブローカーが暗躍していたことも当時の新聞で伝えられている。

    「旅行ノ自粛徹底ヲ期スル」

    1944年2月25日に発令された「決戦非常措置要綱」では産業への統制が一層厳しくなるが、鉄道も例外ではない。同要綱の

    「決戦非常措置要綱ニ基キ戦力増強並ニ防空疎開ニ必要ナル輸送ヲ強化スル為国民戦意ヲ昂揚シ旅行ノ自粛徹底ヲ期スルト共ニ旅客輸送(通勤及通学ヲ除ク)ノ徹底的制限ヲ実施セントス」

    という方針のもとに特急列車は全廃、44年4月1日から100㎞以内の乗車券は発売枚数制限を行い、100㎞以上の旅行については軍人・官吏は所属官庁の証明書、民間人は警察署などで取得した証明書がないと乗車券が発売されないとなった(『日本国有鉄道百年史』より)。しかしこの制限は警察署の作業を煩雑にするだけとのことで、9月には証明書制度は廃止になったが、臨時召集などの公務で移動する人のための証明書の発行は続いた。これがあれば行列の中でも優先的に切符を買えるのである。

    1945年6月からは東京・上野・新宿・横浜・大阪などの主要駅に旅行統制官が置かれ、申請された旅行内容に基づいて旅行を認めるようになった。旅行統制官による統制は終戦後の45年10月に制度が廃止されるまで続いた。

    あの手この手で抜け穴探した国民たち

    では、これらの統制に国民は大人しく従っていたかというと、そうではなかった。抜け穴を突いて束の間の旅行を楽しみ、あるいは生活のために出かける国民はいた。

    ポピュラーな手口は「乗り越し」である。証明書がいらない短距離の切符を買っておいて下車駅で精算してしまえばよい。特に定期券や都市部の国電区間の切符を使い、地方へ買い出しに向かう手口は戦争末期まで続いた。逆に切符の発売制限が近距離乗車券に限られていた時期は、わざわざ長距離の切符を購入して途中下車の体裁で近場の目的地に降りる手口も目立った。これらに対応して当局も「決戦非常措置要綱」発令に伴って定期券による乗り越しの禁止や罰則の強化を行った(朝日新聞1944年4月7日)。

    長距離の私鉄が発達している地域では私鉄で行けるところまで行き、国鉄に乗り換えることもできた。小田急小田原線(当時は東急電鉄の一部)で小田原に出て国鉄に乗り換え、湯河原・熱海方面に向かう旅客の手口は新聞にも報じられている(読売新聞1944年4月3日)。関西・東海・九州でも同様の手段は可能だっただろう。

    さらに国民の本音を拾ってみよう。1926年生まれの旅行作家・宮脇俊三は戦時中の買い出しについて

    「大きな荷物を背負った買出し部隊で汽車はますます混雑するようになった。これに対して『鉄道は兵器だ』『決戦輸送の邪魔は買出し部隊...』といった標語が駅に貼られたりしたが、効果はほとんどなかったと言ってよかった」

    と、自著『時刻表昭和史』で回想する。さらに宮脇の回想によれば、旅行証明書による旅行制限も、官公庁のコネを活用して証明書を入手する抜け穴があり、切符も鉄道職員の裁量で買える例もあったとのことだ。旅行統制官のもとにも「公用」と称しての虚偽申告がかなり多いと報じられている(読売新聞1945年7月18日付)。戦争末期に空襲が激化すると罹災証明書があれば優先的に切符が買えるようになり、混乱期には臨時に仕立てた疎開列車に切符を買わずとも乗れる場合もあった。

    これらの抜け穴を認識している当局としては「自粛」を呼び掛けることになる。例えば内閣情報局発行の国策雑誌「写真週報」315号(44年3月発行)は決戦非常措置要綱発令後の混雑した上野駅の写真を表紙に採用し「『自分さえ旅行できればよい』この根性の行列が続く限り決戦輸送は空転する」と訴えている。

    「自粛警察」と化した新聞

    いくら規制を強化しても限界があったのはコロナ禍と極めて似ている。そしてメディア、特に新聞は庶民の実態を報じるだけでなく、「自粛警察」さながらの見出しで引き締めにいそしんだ。

    1942年11月24日朝日新聞には「足の自粛 まづ成績甲」の見出しに始まり、熱海・伊東・高崎の人出の減り具合を取材、何割減ったかと細かに伝えている。19434月4日の同紙もまた「用事の客は立往生 敵前行楽を追払え 列車に鈴なりの遊覧群」の見出しで、小田原・熱海・三島・沼津・日光の人出を観測し、出かける人々を「時局に相応しくない光景」「足の自粛調は未だしの感がふかかった」と報じている。44年1月18日にも「戦争に勝つためだ 旅行は取りやめ」と国民にハッパをかける見出しが踊る。

    読売新聞も43年10月17日付で「都民の自粛ぶり 連休第一日 足の戦闘配置」との見出しのもと、関東近郊の行楽地の駅の人出を報じていた。他にも「連休に乱れる足の自粛 また買出し行列 乗越禁止も知らぬ顔」(44年4月3日)「乗車証明を濫用 近郊へ自粛忘れた買出部隊」(44年7月3日)などと報じている。

    このコロナ禍でも、多くのメディアが主要駅の映像を映し出し、「人手が何割減ったか」とセンセーショナルに伝え続けたことは記憶に新しい。そしてまた、戦中の食糧難の中で買い出しに出かける人々にとってはとても不要不急などではなかっただろう。

    戦時中の「旅行」をめぐる一例を挙げたが、敗戦まで統制は様々な産業に及んだ。このような歴史は、今年前半の新型コロナの蔓延以降混乱が続く現代社会でも読み取れる教訓を残していそうだ。幸い当時と異なり憲兵も特高もいないのだから、戦争・災害といった緊急事態に社会はどうあるべきなのか、歴史を見つめつつ冷静に考えるべき時かもしれない。

    J-CASTニュース編集部 大宮高史)

    戦時中も「不要不急の旅行の自粛」が呼びかけられていた


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【戦中日本の「旅行制限」 メディアは国民に「自粛」を迫った】の続きを読む



    (出典 contents.trafficnews.jp)


    個人でも利用できるのは驚きました。

    鉄道の大事な役割である貨物輸送。企業や運送会社が、鉄道用のコンテナに貨物を入れて列車で運ぶのが一般的ですが、実は個人でも鉄道の貨物輸送を利用できます。どれくらいの量を、いくらの料金で運べるのでしょうか。

    長距離輸送で実力発揮 鉄道の貨物輸送

    鉄道の役割には大きく分けてふたつ、旅客輸送と貨物輸送があります。昭和30年代ごろまで、鉄道は船とともに物流の主役でしたが、高速道路の整備が進むにつれて激減し、2020年現在、貨物輸送のシェアは、トン(t)ベース(貨物の輸送重量を基に算出)でわずか1%未満になっています。

    しかしながら、多くの貨物を長距離輸送する場合、鉄道はトラックに比べて多くのメリットがあります。

    鉄道輸送で使われるコンテナにはいくつかの大きさがあり、街なかでよく見かける「5tコンテナ」は、その名の通り最大積載量が5tです。日本で走っているコンテナ貨物列車は、最長が26両編成(機関車を除く)で、コンテナ貨車1両には5tコンテナを5個積載できますから、1列車でコンテナ130個、最大650tの貨物を一度に運んでいます。これは、長距離輸送で使われる大型の10tトラック65台分で、それだけ運転手の数を減らすことができるのです。

    ただ、鉄道貨物輸送はあくまでも送り元に近い貨物駅から届け先に近い貨物駅までの輸送です。送り元から貨物駅、貨物駅から届け先までは、どうしてもトラックで運ぶ必要があるため、近距離輸送なら「トラックで直接運んだ方が効率的」ということになります。つまり、鉄道貨物輸送がその実力を発揮するのは、長距離輸送なのです。

    このほかにも、渋滞や交通事故の心配がない、CO2二酸化炭素)の排出量が少なく環境にやさしいなど、鉄道貨物輸送には様々なメリットがあります。近年は、佐川急便や福山通運、自動車メーカーであるトヨタの専用貨物列車が運行されているほか、アサヒビールキリンビールが鉄道を使った共同輸送を行ったり、キューピーと伊藤ハムが同じ鉄道コンテナを片道ずつ使って効率化したりするなど、鉄道貨物輸送は再び注目を集めています。

    運賃+集荷・配達料金を払えば個人利用可能

    ところで、鉄道貨物輸送は企業だけが使えるもの、というわけではありません。実は、個人でも利用できます。

    そういわれると、気になるのはその料金です。鉄道でコンテナ貨物を運ぶ場合、どれくらいの費用がかかるのでしょうか。ここでは5tコンテナをひとつ運ぶ場合を例として、計算してみます。

    まず必要になるのが、貨物列車でコンテナを運ぶための「鉄道運賃(貨物運賃)」です。この鉄道運賃は、人が列車に乗る場合の「旅客運賃」と同じように、距離によって決まります。たとえば、東京貨物ターミナル駅から大阪貨物ターミナル駅までは3万8500円、福岡貨物ターミナル駅までは6万6000円、札幌貨物ターミナル駅までは7万500円です。このなかにはコンテナの使用料金も含まれており、列車の時刻表とともに、JR貨物WEBサイトに公開されているので、誰でも見ることが可能です。

    余談ですが、大阪地区にある4つの貨物駅(大阪貨物ターミナル駅、吹田貨物ターミナル駅、百済貨物ターミナル駅、安治川口駅)は、旅客運賃の「都区市内制度」のように、運賃計算上は同一駅として扱われます。

    次に、上記の鉄道運賃は貨物列車で運ぶ部分に対する費用ですので、これにプラスして「送り元から貨物駅までの集荷料金」「貨物駅から届け先までの配達料金」がかかります。こちらは事業者によって違いますが、とある運送会社の場合は、貨物駅から10km以内は1万円、そこから10kmごとに2500円、という形で加算されます。

    5tコンテナは軽自動車が納まる大きさ

    また、集荷や配達をしてもらうのではなく、貨物駅に自分で貨物を持ち込み、コンテナに積み込むことも可能です。この場合でも、コンテナを貨物列車に積み込む作業は運送会社が行うため、その費用がかかりますが、集荷や配達をしてもらうより安くなります。

    この「鉄道運賃」と「集荷料金・配達料金」が、鉄道でコンテナ貨物を輸送するために必要な料金です。このほかに、積み下ろしにかかった時間に応じた加算料金などが必要な場合もあります。

    では、1個のコンテナでどれくらいの荷物を運ぶことができるのでしょうか。

    5tコンテナの内寸は、長さ3.64m、幅2.27mで、畳およそ5畳分に相当。高さは2.25mあり、なんと軽自動車がまるまる1台入ります。ミカン段ボール(40×30×25cm)だと63箱×8段、引っ越しで使われる大きめの段ボール(55×35×40cm)でも40箱×5段と、かなりの量を積むことが可能です。冷蔵庫洗濯機、本棚なども余裕で入りますので、単身での引っ越しはもちろん、荷物が少ない夫婦ならコンテナ1個で済むでしょう。

    実は、筆者(伊原 薫:鉄道ライター)もコンテナを使った鉄道貨物輸送を利用したことがあります。このときは引っ越しではなく、鉄道イベントで展示する模型レイアウトや鉄道部品などを、大阪貨物ターミナル駅から福岡貨物ターミナル駅まで運んでもらいました。

    コンテナの留置きサービスは無料で利用可能

    その際、筆者自宅から大阪貨物ターミナル駅までは、筆者自ら荷物を何回かに分けて自家用車で運び、福岡貨物ターミナル駅からイベント会場へはトラックでコンテナをそのまま輸送。筆者自身は数日後に福岡へ移動し、イベント会場でコンテナから荷物を下ろしました。

    宅配便では運べないような大きな荷物も、コンテナ貨物なら輸送することができ、荷物を積んでから配達先で下ろすまでは「封印環」と呼ばれるシリアルナンバー入りの器具で封印されるため、荷物がなくなる心配もありません。費用は総額で6万円弱と、トラックで運ぶより安く済みました。

    そして、鉄道輸送で意外と便利だったのが、コンテナの一時留置サービスです。列車で運ぶ前や運んだ後に、貨物駅で輸送当日を含めて6日間、コンテナを無料で保管してくれるのです。これを使えば、コンテナを数日前にあらかじめ送り、自分たちは列車や自動車で移動して荷下ろしをする、ということが可能。通常の引っ越しやトラック輸送では、不可能だったり追加費用がかかったりしますので、とてもありがたいサービスです。

    個人でも利用できる、鉄道のコンテナ輸送。JR貨物WEBサイトでは、個人利用の相談も受け付けていますので、もし引っ越しや多くの荷物を運ぶことがあれば、考えてみてもよいかもしれません。

    コンテナ貨車をけん引するJR貨物のEF200形電気機関車(画像:photolibrary)。


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    (出典 www.kamisu.ed.jp)


    過去には事故を想定して脱出訓練をおこなったところもあります。

    修学旅行前の列車の乗車練習に関するアンケートを実施。練習の経験がある人は約3割で、そのほとんどが新幹線の乗車練習でした。「本番」で練習の成果が発揮されたかどうかの結果も判明しています。

    学校で隊形や駅ホームでの動きなどを練習した経験は?

    「乗りものニュース」では2020年4月29日(水・祝)から5月1日(金)にかけて、修学旅行前の列車の乗車練習に関するアンケートを実施。620人から回答が集まりました。

    「あなたは修学旅行前、学校で、乗りものに乗る際の隊形や駅ホームでの動きなどを練習した経験がありますか?」の質問では、「ある」が32.7%、「ない」が60.8%、「忘れた」が6.5%でした。

    「ある」と回答した人に練習した乗りものを質問(複数選択)すると、「新幹線」80.8%、「在来線列車」29.1%、「忘れた」1.0%、「その他」7.4%でした。「その他」は「バス」(50~54歳、女性ほか複数)、「飛行機」(50~54歳、男性ほか複数)、「青函連絡船」(60~64歳、男性)などです。

    「練習をしたのはいつのときですか?」の質問(複数選択)では、「小学校」34.0%、「中学校」75.4%、「高校・専門学校」9.4%、「忘れた」0.5%、「その他」0.5%(「保育園」~19歳、男性)でした。

    修学旅行前に乗車練習…「本番」で成果は発揮できたのか?

    「練習の成果は本番で発揮されましたか?」の質問では、「発揮された」49.8%、「どちらともいえない」36.5%、「発揮されず失敗に終わった」2.5%、「忘れた」9.4%、「その他」2.0%でした。

    「その他」は、「教師が乗り場の位置を把握していなかったため振り回された」(~19歳、男性)、「ホームの狭い号車だったためにリハと全然違う形で乗車した」(~19歳、男性)といった回答が寄せられています。

    なお、乗車練習をしたことがないと回答した人を対象とした、修学旅行時の目的地までの主な乗りものの質問(複数選択)では、「新幹線」83.0%、「バス」51.7%、「在来線列車」40.6%、「飛行機」21.5%、「その他」8.5%(フェリーなど)でした。

    アンケート実施概要
    ・調査期間:2020年4月29日(水・祝)19時ごろから5月1日(金)10時ごろまで
    ・調査方法:Questantのシステムを利用して調査
    ・対象:「乗りものニュース」のSNSTwitterFacebook)のフォロワーなど
    ・有効回答数:620

    東海道新幹線(画像:写真AC)。


    (出典 news.nicovideo.jp)

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