ハヤブサ24

九州出身の鉄道ファンです。
現在は関東に在住しています。このブログは主に鉄道系のニュースなどを投稿したり、時々、鉄道で旅したときの日記なども投稿します。 鉄道以外の乗り物も投稿することもたまにはあります。

    カテゴリ:関東の鉄道 > 廃線


    ここにも廃線跡がある。

    大正天皇 多摩陵や昭和天皇 武蔵野陵がある多摩御陵を含む、甲州街道北側、南浅川から北の区域―――東京都八王子市長房町。

    このエリアGoogleマップでみて、ローソン 八王子長房町店の西側に注目すると、住宅街カーブして並んでいるのがわかる。

    ストリートビューでこのあたりを確認すると、コンクリート製の鉄道橋脚が残っているのをみつける。

    このカーブは、もともと線路軌道だった。その正体は↓↓↓

    京王御陵線

    その名のとおり、当時の京王電気軌道が敷いた、多摩御陵へと結ぶ路線で、↑↑↑上空写真は1946(昭和21)年当時の国土地理院のもの。

    京王電気軌道は、1931(昭和6)年に現在の北野から御陵前(御陵線 多摩御陵前)までを開業。6.3kmの間に途中駅 武蔵横山駅も設置した。

    中央線の線路を高架で越えたところ(画面右下)にある武蔵横山駅は、現在の国道20号 甲州街道と、山田町並木線が交差する並木町交差点付近にあった。

    御陵線の軌道は、この武蔵横山駅を過ぎると、南浅川を鉄橋で越え、前出の左カーブを経て、終点 多摩御陵前駅へと達した。

    多摩御陵前駅は、現在の多摩御陵参道と御陵甲の原線が交差する付近にあった。

    御陵線 北野~多摩御陵前は、1945(昭和20)年に休止。その後、御陵線の途中駅、山田から高尾山口へと線路をのばし、御陵 山田~多摩御陵前は1964(昭和39)年に廃止した。

    いま、その名残がこうして純粋コンクリート橋脚として住宅地にとけ込んでいる。

    <鉄道チャンネル 関連記事>
    中央線 西八王子―高尾にあった“駅”(鉄道チャンネル
    https://tetsudo-ch.com/11463678.html
    ◆いま京都鉄道博物館の玄関口、斜めに走る道路の先にむかしあった貨物ヤード(鉄道チャンネル
    https://tetsudo-ch.com/11620269.html
    新幹線在来線の連絡路、信号場から続く旧線跡(鉄道チャンネル
    https://tetsudo-ch.com/11607681.html

    画像:多摩に暇人 / Wikipedia



    (出典 news.nicovideo.jp)

    【東京 八王子に残る鉄道コンクリート台】の続きを読む


    歴史的に貴重

    1 少考さん ★ :2021/08/23(月) 13:46:33.47

    ※NHK

    国内初の鉄道築堤「高輪築堤跡」国の史跡に“文明開化を象徴”
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210823/k10013218171000.html

    2021年8月23日 13時15分

    国内初の鉄道の線路を敷設するために築かれた東京の「高輪築堤跡」が、明治の文明開化を象徴する重要な遺構として、新たに国の史跡に指定されることになりました。

    「高輪築堤跡」は明治5年、1872年に新橋ー横浜間で開業した国内初の鉄道の線路を敷設するために、東京湾の海上に盛り土をして築かれた堤です。

    JR東日本が、高輪ゲートウェイ駅周辺の開発工事に伴って実施した発掘調査で見つかり、側面に石垣を積んだ創業当時の築堤や関連した遺構が良好に残っていることが判明しました。

    文化庁の審議会は、明治の文明開化を象徴し、交通の近代化や土木技術などの歴史を知るうえで重要な遺構だとして、23日、国の史跡に追加指定するよう萩生田文部科学大臣に答申しました。

    今後、すでに史跡に指定されている「旧新橋停車場跡」と一体的に保護されることになります。

    (略)

    ※省略していますので全文はソース元を参照して下さい。


    【【文化庁】国内初の鉄道築堤「高輪築堤跡」国の史跡に“文明開化を象徴”】の続きを読む


    珍しいです。

    (画像:那須野が原博物館提供)

    1902(明治35)年から1918(大正7)年まで、栃木県の氏家と喜連川町間の約8.25kmを、人が車両を押すいわゆる「人車鉄道(人車軌道)」が結んでいた。名を「喜連川人車鐵道(きつれがわじんしゃてつどう)」という(※)。

    2021年現在、栃木県さくら市で、約1世紀も前に廃止された人車鉄道を復興させる機運が高まり、有志による「喜連川人車鐵道再現計画」が進んでいる。

    地域活性化に資するプロジェクトという位置づけで、当時の車両を再現するのみならず、かつての線路跡地にレールを敷設し、実際に運行させることを目標としている。プロジェクトチームは5月、国道293号 ニッカウヰスキー栃木工場近くの弥五郎坂に試作車両および試作線路を配置・設置した。

    試作車両と試作線路。軌道敷設は5月4日、車両設置は5月9日にそれぞれ行われた(画像:人車鐵道再現計画チーム提供)

    人車鉄道の車両建造費やレール敷設費などは、クラウドファンディングサイト「Wonder Stream」で募る。リターンとしては「お礼状」や当時のきっぷを再現した1~3等切符などが用意されており、1口1,000円~200,000円で支援ができる。

    CFの目標額は600万円で、受付は7月31日まで。支援総額は7月17日時点で目標額の40%に相当する240万円を突破している。

    鉄道チャンネル編集部

    ※……運営会社名はのちに「喜連川人車軌道」に改称。



    (出典 news.nicovideo.jp)

    【約100年ぶりの復活なるか「喜連川人車鐵道再現計画」】の続きを読む



    成田鉄道廃線跡01 - YouTube
    (出典 Youtube)


    幻の鉄道

    不要不急線を歩く05 〜〜 成田鉄道 多古線(千葉県) 〜〜

     

    そろそろ“不要不急の外出を控えて”という言葉も聞かなくなりつつある。今から80年ほど前に不要不急といえば、不要不急線を指した。利用率の低い鉄道路線を休止、廃止にして、線路などを軍事用に転用する。そのため全国に不要不急線が指定され、多くの路線が消えていった。

     

    今回は、千葉県内を走った成田鉄道多古線の旧路線跡を訪ねた。そこにはいくつかの謎が浮かび上がってきたのである。

     

    【関連記事】
    「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

     

    【多古線その①】陸軍の鉄道敷設部隊が造った県営路線が始まり

    かつて、千葉県のJR成田駅とJR八日市場駅(ようかいちばえき)の間を結んでいた鉄道路線があった。成田鉄道多古線(たこせん)と呼ばれる路線である。太平洋戦争中に不要不急線として指定され、運転休止となり、戦後そのまま廃止となった。

     

    この路線の歴史は興味深い。まずは千葉県営鉄道として誕生した。しかし、建設したのは千葉県ではなく、大日本帝国陸軍の鉄道連隊という鉄道敷設のプロ集団だった。この連隊は、占領した地域などで素早く線路を敷設するために設けられた部隊だった。

     

    この鉄道連隊の第一・第二連隊が千葉県内に連隊本部が設けられ、主に千葉県内で路線を敷く演習をさかんに行った。

    ↑鉄道第一連隊の架橋作業の模様。大人数の部隊により素早く架橋作業が行われた。現在の千葉市花見川区柏井だとされる絵葉書 筆者所蔵

     

    この鉄道連隊は、太平洋戦争時に内外に二十連隊まで出来たというのだから、大部隊だったことがわかる。この部隊により、千葉県内では現在の東武野田線、JR久留里線小湊鐵道線などの路線が造られ、今も使われている。鉄道会社では、用地のみ提供すれば路線を造ってもらえるとあって、非常にありがたい部隊でもあった。

     

    今回、取り上げた多古線も連隊により造られ、設備、車両などは当初連隊から県が借用し、のちに千葉県へ払い下げられた。

    ↑第一連隊の路線造りを写した絵葉書。いかに大がかりに線路が敷かれたか分かる。場所は特定出来ないが現在の千葉市内だとされる 筆者所蔵

     

    【多古線その②】戦時下に休線となり戦後、正式に廃線へ

    多古線の概要と歴史を見ておこう。


    路線 成田鉄道多古線・成田駅八日市場駅間30.2km
    路線の開業 1911(明治44)年7月5日成田駅〜三里塚駅が開業、10月5日、多古駅まで延伸。1926(大正15)年12月5日、多古(仮)駅〜八日市場駅間が開業
    廃止 不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年1月11日に休止、1946(昭和21)年10月9日に廃止に

     

    鉄道連隊による演習で、まず成田駅〜三里塚駅間の路線が敷かれた。線路敷設は軍の演習として行われたので、開業後のことなどは念頭におかれなかったようだ。初期に出来た成田駅〜多古駅間は、軌間幅が600mmという狭いスケールで造られている。軽便鉄道と呼ばれる路線ですら762mmという軌間幅(現在の黒部峡谷鉄道三岐鉄道北勢線など)が多数なので、極端に狭かったことが分かる。要は、占領した土地での線路敷設は恒久的なものではなく、あくまで一時的で、利用しやすさなどは二の次だったようだ。

     

    多古線は1911(明治44)年に千葉県営鉄道の路線として運転が開始された。その後の1926(大正15)年に開業した多古(仮)駅〜八日市場駅間は1067mmという軌間幅だった。成田駅〜多古駅間は開業当時の600mという軌間幅での運転がしばらく続けられた。

     

    軌間幅が600mmのころの記録が複数の文献に残されている。軌間の狭さから列車のスピードは極端に遅かった。当時の様子を、“列車に乗り遅れても駆け足で追いつけた”、“乗客が走行中の列車から降りて、用を足した後に駆けて飛び乗った”といった逸話が残る。のんびりした列車だったようである。

     

    千葉県営鉄道として開業した多古線だったが、軌間幅が狭く、さらにスピードは遅く、経営がたちゆかなくなった。そのためもあってか、1927(昭和2)年に成田電気鉄道に譲渡された。同年に成田電気鉄道は成田鉄道に改められている。そして1928(昭和3)年に1067mmに改軌され、ようやく全線を通して列車が運転されるようになったのだった。

     

    それから16年後。不要不急線に指定され、1944(昭和19)年1月11日に運転を休止、戦後の1946(昭和21)年10月9日に廃止となっている。ちなみに休止した後は省営自動車が営業権を引き継ぎ、貨物運輸の営業が開始されている。

     

    不要不急線として指定されたのは、もちろん利用者が少なかったこともあっただろう。それよりも、むしろ陸軍が演習で造った路線だけに、政府も不要不急線として指定しやすかったのかも知れない。

     

    【多古線その③】JR成田線に沿って残る多古線の廃線跡

    成田駅前発のジェイアールバスが、ほぼ旧多古線に沿って走っている。三里塚までは本数も多く便利な路線となっている

     

    ここからは多古線の路線跡を歩いてみよう。30km以上の長い路線ということもあり、旧路線に沿って走る路線バスを何回か利用した。このバス路線はジェイアールバス関東の多古本線と呼ばれる。ただし、千葉県内を走る同社の路線バスとして主要路線となっているのに、同社の案内には多古本線の名前はない。

     

    1928(昭和3)年、国土地理院(昭和初期は「参謀本部陸地測量部」)の地図を見ると、まず多古線の線路は、JR成田線の線路に沿って走っていたことが分かる。成田駅から成田線に沿って歩いてみた。すると、線路の横に細い歩行者専用道路が北へ向けて延びていた。ちょうど線路1本分ほどの幅で、明らかに多古線の跡だと分かった。この歩道も現在の成田小学校の先から途絶える。

    ↑多古線は成田線に沿って走っていた。現在、線路跡は歩行者専用道路に整備され、地元の人たちに利用されている

     

    多古線は開業当初、成田市街を大きく迂回、遠回りして走っていたが、軌道幅を広げるにあたって、成田山新勝寺の裏手を通る新たなルートに変更されている。その新ルートの遺構が市内に残っている。

     

    【多古線その④】新勝寺の裏手に路線唯一の遺構が残る

    成田市街の北に成田山公園という丘陵地がある。この西に成田山新勝寺があり、裏手を通る土屋中央通り沿いに、多古線の鉄橋を支えた橋台の遺構がある。かつての多古線がここを走っていた証しだ。

     

    廃線の前後が私有地となっているために、路線跡をたどれないのが残念だったが、移設した路線の工事も鉄道連隊によって行われたのだろうか。気になるところだ。

    成田市内、土屋中央通沿いに立つ多古線の橋台跡。写真に写る側しか橋台は残っておらず、手前は住宅がひな壇状に建つ

     

    多古線の橋台跡を探索した後は、そのまま路線跡をたどれないこともあり、新勝寺を参拝しつつ成田山門前へ。ここには以前、成田鉄道宗吾線の停留場があった。この路線も太平洋戦争下に休止、そして廃止の道をたどった。成田市近辺には、こうした廃線跡が複数残る。ちなみに成田鉄道は現在、千葉交通と名前を変えて、路線バスの事業者となっている。しかし、多古線は太平洋戦争中に鉄道省(後の日本国有鉄道)が営業する路線バスが営業権を引き継いだこともあり、国鉄の路線バス網を引き継いだジェイアールバス関東路線バスを運行させている。

    ↑成田山新勝寺に近い成田山前バス停に到着するジェイアールバス。同地には成田鉄道宗吾線の成田山門前停留場があった

     

    多古線を引き継いだジェイアールバスに成田山前から乗車した。バスはしばらく、多古線の路線から付かず離れずの道をたどる。

     

    成田市の市街、東側を通り抜ける国道51号から先、道路の造りが謎めいている。

     

    路線バスは通称・芝山はにわ道という高台の県道を走る。多古線は高台の下のやや標高の低いところを走っていた。現在、路線跡は片側一車線の道路(こちらの道路は名称が付けられていない)となっている。この2本の道は、その後に合流することも無く、ほぼ平行して成田空港方面へ向かう。バスに乗車した筆者は法華塚というバス停で下車して、旧路線跡を目指した。

     

    【多古線その⑤】三里塚駅は現在のバス停と異なる場所にあった

    バスが走る芝山はにわ道と平行した多古線跡を利用した道が、京成電鉄東成田線をまたいでいる。同路線は成田空港の開港にあわせて1978(昭和53)年に開業したこともあり、当然ながら多古線が走っていたころに、この線路はない。

    ↑今もバス停として法華塚の名が残る。この右手下に多古線が走り法華塚駅があった。その近く、現在は京成電鉄東成田線が通る(左上)

     

    奇しくも筆者が降りた法華塚バス停の近くは法華塚駅があったようだ。法華塚バス停に近い、京成電鉄東成田線の線路との交差地点から、多古線はほぼ現在の路線バスが走る通りに沿って走っていた。この先、三里塚の町へ入る。

     

    現在の三里塚バス停は、三里塚の町の中心に設けられている。多古線の三里塚駅はこのバス停より1kmほど手前にあった。

    ↑現在のバス通りに平行して走っていた多古線。この先、道が細くなる(左上)あたりに旧三里塚駅があった

     

    バスターミナルとして整備された現在の三里塚バス停。同バス路線では、多古とならぶ大きめのバス停となっていた

     

    さて三里塚へ到着した。三里塚といえば、古くは御料牧場があり、その後には成田空港開港時に闘争の町として記憶されている方も多いかも知れない。現在の三里塚は成田空港近郊の静かな住宅地という印象が強かった。

     

    ちなみに成田鉄道の八街線(やちまたせん)という路線が八街駅〜三里塚駅を走っていた。この路線も鉄道連隊が線路を敷設していた。開業は1914(大正3)年のことで、千葉県営鉄道としてスタートしている。こちらも軌間幅は600mmと狭く、その後に改軌されることもなく、1940(昭和15)年8月19日に廃線となっている。

     

    三里塚には戦後に開拓団が入植した。そうした三里塚に戦前に鉄道路線を敷くこと自体、鉄道連隊の演習路線だったにしても無謀という印象がぬぐえない。

     

    【多古線その⑥】今の成田空港の滑走路上を多古線が走っていた

    三里塚から先、多古線では千代田が次の駅となる。しかし、今は廃線の上を成田空港のA滑走路が貫いている。多古線は長さ4000mのA滑走路のちょうど南端部分を走っていた。旧三里塚駅からの先の路線跡は現在、細い道となっている。道は空港の西側に設けられた壁にちょうど突き当たるが、先への進入はもちろん出来なくなっている。

     

    さて、多古線とほぼ同じルートで走る路線バスは、どのようなルートで走っているのだろうか。空港内を突っ切る道路はない。そのために、南側へ大きく迂回している。路線バスはA滑走路の南端にある航空科学博物館へ。また航空科学博物館を経由して、第2、第1ターミナル、貨物管理ビル前へ向かう便が多い。

    成田空港の三里塚側は厳重なフェンスで囲まれる。ちょうど左に白い案内板があるあたりから多古線の線路は千代田へ向けて延びていた

     

    その先、多古線のルートをたどるバスがないのか調べると、三里塚を出たバスのうち、千代田バス停を経由して、多古町内を通り八日市場駅へ向かうバスが走っている。しかし、このルートを走るバスは本数が非常に少ない。平日は成田駅発が7便、八日市場駅発が6便、土休日は5往復しかないのだ。

     

    この路線バスは、三里塚に住む人たちが成田駅方面へ、また成田空港方面へ向かう人で成り立っているように感じた。

     

    【多古線その⑦】現在の芝山千代田駅の南に旧千代田駅があった

    本数が少ない閑散バス区間に、逆に筆者は興味を持った。

     

    さらに多古線という路線名が付いたように、どうして多古を通るルートになったのか。筆者は、この多古線を巡る前、多古町(たこまち)という町名をあまり良く知らなかった。同音異句の言葉にタコがあり、そのことが印象に少し残ったぐらいだった。

     

    成田空港の南東側は芝山町となる。この町には芝山鉄道という鉄道会社の路線が走る。路線距離は2.2kmで、日本一短距離の路線を持つ鉄道会社だとされている。終点駅は芝山千代田駅だ。この駅へ立ち寄るバスはさらに少なく、1日に上り下りとも2便ずつといった状態だった。つまり乗り継ぎなどで芝山千代田駅を使う人がほぼいないということなのだろう。

     

    筆者は芝山千代田駅から最寄りの千代田バス停まで歩いてみた。空港の東側はターミナルなどさまざまな施設があり、また車の通行量も多く、それなりの賑わいを見せていた。芝山千代田駅から千代田バス停までは600mで、歩いても8分ほどの距離だった。

     

    成田空港を芝山町側から見る。旧多古線は右上の歩道あたりから三里塚に向けて線路が延びていた。今は芝山千代田駅(左下)が最寄り駅となる

     

    千代田バス停から多古線をたどって路線バスに乗車してみて驚いた。休日の日中のバスには筆者以外、誰も乗っていなかった。多古までの途中、1人が乗車してきたくらいだ。八日市場駅〜千代田バス停区間は、超閑散区間だったわけである。コロナ禍の最中とはいえこの乗車人数を考えれば、便数の少なさも致し方ないのだろうと感じた。ちなみに、走るバスも成田駅〜三里塚バス停間より古い車両が使われ、乗り心地の良さにやや欠けた。この区間に住む人たちの大半が路線バスを使わず、移動はマイカーに頼っているのかも知れない。

    ↑芝山千代田駅に近い千代田バス停。最寄りに旧千代田駅があった。ここからバスは東の多古へ向かう

     

    【多古線その⑧】バスはひたすら田園地帯を走り多古へ向かった

    バスは芝山町の千代田バス停から、多古線の線路跡を利用した道を走る。道幅は片側一車線もなく、一部区間では対向車とのすれ違いが難しい。ちょうど線路の幅を広げたくらいに見えた。とはいえ起伏が少なく、切り通しや田畑を見下ろす斜面上を走るなど、快適な道だ。交差する一般道とは立体交差する箇所もあり、やはり昔の鉄道路線らしい痕跡がうかがえる。

     

    千代田駅と多古町の入口にあった旧染井駅との間には2つほど駅があったとされる。この区間、実は旧路線と、廃止時の新線区間があった。ここでも軌間幅を広げる時に路線の敷き直しをしたようだ。しっかりした記録がないため推測の域を出ないが、このあたりの路線造り直しも、鉄道連隊が演習として関わったのだろうか。

    ↑旧千代田駅と旧五辻駅間では、多古線は旧路線と新路線(写真)が平行して設けられた。現在は写真のように一般道として整備されている

     

    千代田駅から10kmほどで旧多古駅へ到着する。この多古駅にも新旧2つの駅があった。この新旧駅を訪れて、加えて多古の町も歩いてみた。さて多古の町はどのような町だったのだろう。

     

    【多古線その⑨】多古には江戸時代、小さな藩が設けられていた

    路線バスは、現在の多古の公共交通機関の拠点でもある多古台バスターミナルに到着した。このターミナルからは東京駅八重洲口へ高速バスが走る。また、成田空港の第2ターミナルへのシャトルバスが約30分〜1時間おきに発着している。

     

    訪れてみて、路線バスの乗客が少ないことが理解できた。今の路線バスは、昔の多古線のように成田と多古、そして八日市場を結ぶものの、その間に住む人々の移動手段として使われていない。成田空港があることで空港の東と西で、行き来が断ち切られてしまっている。むしろ、多古からは東京の都心および成田空港(鉄道駅もあり利用しやすい)との結びつきが強い。路線バスに乗って、成田と多古間を移動しようという筆者のような“物好き”は、いないようだった。

     

    ↑多古はかつてこの地方の中心的な町だった。古い郵便局の建物が町内に残る。右上は多古の現在の中心、多古台バスターミナル

     

    多古は古い歴史を持つ町でもあった。現在の町名の書き方とは異なるが、徳川家康が関東を治めるにあたって、多胡藩という小藩が置かれた。小藩ゆえの悲哀で一時期、他の大名領に併合されることもあったが、江戸時代の終わりまで藩は続き、廃藩置県後に、多胡県、新治県となったのちに、千葉県に編入されている。

     

    今も町内に藩の政治が行われた陣屋跡が残る。また、前島 密(郵便制度の生みの親)の要請で千葉県初の郵便局が開設された。同郵便局は1942(昭和17)年に建て替えられたが、今も建物が残されている。

     

    多古という町は、千葉県の行政に関わる重要な都市でもあったのだ。そのために鉄道の路線名を付ける時にも多古の名前が使われたのであろう。

     

    【多古線その⑩】多古町内に旧駅と新駅があった

    先に多古線の歴史に触れた時に多古(仮)駅とした。千葉県営鉄道として開業した時に多古駅は、町の中心に近い場所に設けられた。しかし、その後に八日市場駅との間に設けられた軌間1067mmの新しい駅は町の南側、現在の国道296号が走る場所に多古(仮)駅として設けられた。同じ多古町多古という字名なのだが、距離差は直線距離で600mほどある。

     

    筆者は両駅に訪れてみた。最初にできた駅は町の中心といっても良いところにあった。町役場もすぐそばだ。だが、新たにできた、多古(仮)駅は町の外れにあり、南側に広大な田畑が広がっていた。

    ↑旧多古駅(初代)に立つ多古町の歴史案内。そこに県営軽便鉄道として生まれた多古線の紹介があった

     

    多古線の路線を敷くにあたり、どのように計画されたかは、今となっては調べることが難しくなっている。成田駅〜多古駅間が1067mm軌間に改軌された時に、旧駅の南側に造られた多古(仮)駅が、正式に多古駅となった。町の中心から600mほど南に移動したこともあり、当時、多古に住む人たちは不便に感じたことだろう。

     

    利用者を無視した駅の移動といっても良い。利用者減少に悩み、不要不急線になってしまったわけだから、矛盾を感じる。

    ↑軌間幅を広げたのちは、多古町の南はずれの仮駅が正式な駅となった。現在の国道296号が通るあたりだが町外れの印象が強い

     

    旧駅付近には多古町が立てた歴史散策という案内板があった。建設時の写真もあり、県営軽便鉄道として多古線が開業した当時のことにも触れている。さらに興味深い記述があった。

     

    「セレベス島(現インドネシア・スラウェシ島)鉄道敷設用の資材供出のため廃線となりました。供出された多古線の鉄道資材は、輸送船が撃沈され、結局セレベスでの鉄道敷設は実現しませんでした」とあった。

     

    戦争遂行のために不要不急線として休止させられ、その後に廃線となった多古線。駅の移動自体も矛盾を感じたが、不要不急線という政策自体に矛盾を感じる。廃止させられ、線路が持ち出されたものの、結局、何にも役立たなかったわけである。

     

    多古線は不要不急線とならなくとも、その後に廃止されたかも知れない。とはいえ、戦後は復興に向けて必ず役立ったであろうし、なんともやるせない気持ちが残った。

     

    【多古線その⑪】そして今回の終着駅・八日市場駅へ

    多古から先、路線バスは多古の町内を巡り八日市場駅へ向かう。多古線の多古駅〜八日市場駅は、現在の国道296号にほぼ沿って線路が設けられていた。国道の拡幅にも路線跡が活かされたようだ。この区間には3つの途中駅があったが、今も昔も千葉県の穀倉地帯でもある広大な田畑が広がり、集落は点在するのみとなっている。

     

    八日市場駅が近づくにつれて、住まいも増えてくる。現在のJR総武本線と並走したその先に、旧終点だった八日市場駅が見えてくる。

    総武本線に並走して多古線の線路が敷かれていた。線路跡は現在、一般道として使われている

     

    八日市場駅(左上)の西側を跨線橋から望む。駅付近の広い駐車場にはかつて多古線のホームや貨車の入換え線などがあったと推測される

     

    多古線は太平洋戦争前後で休止、廃線となってしまった。多古線が走った千葉県の同エリアは現在、鉄道の無いエリアとなっている。一方、成田空港まではJRと京成電鉄の路線があり、本数が多く便利な路線となっている。

     

    地元向けの鉄道路線といえば、芝山鉄道2.2kmしかない。この芝山鉄道を延伸させようという連絡協議会「芝山鉄道延伸連絡協議会」が設けられている。こちらは地元の芝山町、横芝光町、山武市の3市町で構成される。路線の延伸自体は、現在の鉄道とバスなどの利用状況を見ると適いそうにないが、連絡協議会によって空港シャトルバス・空港第2旅客ターミナル〜横芝屋形海岸間が運行されている。路線が走るのはちょうど、多古線よりも南側である。さらに前述したように多古町と成田空港もシャトルバスによって結ばれている。

     

    これらのシャトルバスの運行に関わっているのが千葉交通。このバス会社こそ、多古線を運行させた成田鉄道の現在の姿でもある。成田鉄道多古線は消えたが、今も同地区ではそのDNAを受け継ぐ千葉交通のバス路線網が健在だったのである。

    陸軍が造り戦時下に消えた「成田鉄道多古線」——ミステリアスな痕跡を求めて


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    (出典 s.response.jp)


    ここにも廃線が・・

    1 砂漠のマスカレード ★ :2021/06/10(木) 17:03:41.29

    東急多摩川線・目黒線と池上線は、同じ東急の路線ですが付かず離れずで並行しています。なぜこのような路線網になったのでしょうか。

    東急の「密集地帯」の生い立ちは
     東急は複数の路線が都内で複雑に絡み合っており、位置関係をすぐに把握するのは困難です。その理由のひとつが、東急多摩川線および目黒線と、池上線が「ほとんど同じ所を走っている」という点です。地図上で見ると、両者はほぼ全線で並行し、最も離れている田園調布駅と石川台駅のあたりでも1.5km程度しか離れていません。

     一見不可解な路線網ですが、歴史を紐解いていくと、このような形になるのはある意味で必然だったことがわかります。

    まず最初に誕生したのは池上線で、1922(大正11)年に池上電気鉄道が蒲田~池上間を開業します。この鉄道路線の当初の主目的は、日蓮宗の大本山・池上本門寺への参詣客の需要を満たすためでした。翌1923(大正12)年には雪ヶ谷(現:雪が谷大塚)まで延伸します。

     当初の路線免許は1914(大正3)年に認可された、目黒~大森間というルートでした。しかし計画は難航し、1919(大正8)年、大森ルートを諦めて蒲田からのルートに切り替えたのです。

     さて一方で、別の鉄道計画が北から動いていました。現在の洗足や田園調布などの一帯を分譲住宅地に開発する計画を進めていた田園都市株式会社が、都心乗り入れ路線を敷設しようとしたのです。ちなみにこの田園都市には相談役として、渋沢栄一が携わっていました。

     最初の路線免許は1920(大正9)年、現在の大井町~大岡山~田園調布~沼部間に当たるルートでした。これが池上線を除く現在の東急の路線としては、第一号となるルートです。

     つづいて翌1921(大正10)年、現在の目黒~大岡山間に当たるルートも路線免許を取得。1922年には「東急の祖」と言われる五島慶太率いる鉄道会社・目黒蒲田電鉄が設立され、1923(大正12)年3月に目黒~丸子(現:沼部)間が開業します。さらに同年11月には早くも蒲田まで延伸。池上電気鉄道をあっという間に追い抜き、山手線の駅と蒲田駅のあいだを結んでしまいました。

    起死回生を賭けた新線計画
     完全に後手に回った池上電気鉄道は、目指した目黒駅がすでに目黒蒲田電鉄の発着駅であったため、ターミナル駅を五反田駅に変更。1928(昭和3)年6月に蒲田~五反田間を全通させます。同時に起死回生の策として、雪ヶ谷から西へ分岐し、国分寺まで至る壮大なルートの路線免許を取得。その手始めとして、同年10月に「新奥沢線」という名称で、雪ヶ谷~新奥沢間の1.5km弱を開業します。

     しかし時すでに遅く、ライバルの目黒蒲田電鉄ではこの5年間に一気に飛躍していました。子会社の東京横浜電鉄が1926(大正15)年に丸子多摩川(現・多摩川)~神奈川間を開業、目蒲線との直通で目黒~神奈川間の列車を走らせます。神奈川駅は東横線反町~横浜間に存在した駅です。さらに翌1927(昭和2)年には渋谷~田園調布~丸子多摩川間が開業し、「東横線」が誕生します。加えて同年には目黒蒲田電鉄の大井町~大岡山間が開業。1929(昭和4)年には二子玉川まで延伸します。

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    2021年6月10日 14時10分
    乗りものニュース


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    東急目蒲線前面展望(3000系・1989年) 蒲田→目黒


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