ハヤブサ24

九州出身の鉄道ファンです。
現在は関東に在住しています。このブログは主に鉄道系のニュースなどを投稿したり、時々、鉄道で旅したときの日記なども投稿します。 鉄道以外の乗り物も投稿することもたまにはあります。

    カテゴリ:関東の鉄道 > 廃線



    (出典 farm5.static.flickr.com)


    幻の鉄道

    1 砂漠のマスカレード ★ :2021/03/28(日) 18:25:55.89

    戦前に開通し廃止された白鬚線

    東京23区内の大手私鉄路線で、たった8年しか存続しなかったものがあります。京成電鉄の「白鬚(しらひげ)線」です

     場所は現在の墨田区。押上線 京成曳舟~八広間にあった向島駅を起点に北西へ、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)を東向島駅の北側でまたぎ、隅田川に架かる白鬚橋の東詰付近にあった白鬚駅に至る1.4kmほどの路線でした。1928(昭和3)年に開業するも、1936(昭和11)年に廃止されています。

     周辺は下町の住宅街で、線路跡は宅地化されたといわれ、現地はもちろん、地図上でもそのルートを追うことは困難なほど。起点であった押上線の向島駅も、戦時中の休止を経て廃止されており、線路が高架化された今では、当時の面影を思い浮かべることすら難しいかもしれません。

     開業当初は押上~白鬚間の直通運転も行われたものの、利用者は少なく、線内の折り返し運転になったとされます。短い路線であるうえに目ぼしい観光地などなく、終点の白鬚駅に接続する路線もなかったため、利用が少ないのも頷けるところです。

     では、どのような意図をもって開設された路線だったのでしょうか。

    白鬚線に見る京成の苦悩

    白鬚線が計画された大正時代、京成線の本線は現在の押上線でした。押上を起点に千葉方面を結んでいましたが、より都心部への乗り入れを画策して、浅草や上野などへ路線を延伸する申請を国に行い、そのなかで唯一許可を得て建設に至ったのが白鬚線でした。

     白鬚から先は隅田川を越え、荒川区の三ノ輪橋で現在の都電荒川線、当時の王子電気軌道と連絡することを目指していました。さらに日暮里方面へ路線を延伸する計画もありました。

     ただ白鬚線開通後、日暮里~筑波間などの建設免許を取得していた筑波高速度電気鉄道が、京成に合併を持ち掛けます。同社は免許を取得したものの資金面から開通の目途が立っていなったそうですが、もともと鉄道を建設する気がなく、取得した免許を他社に売却する投機目的の会社だったともいわれます。それはともかく、京成にとっては願ってもないチャンスだったのかもしれません。

     とんとん拍子に話が進んだのか、京成は1930(昭和5)年に筑波高速度電気鉄道を合併し、白鬚線開通からわずか3年後の翌1931(昭和6)年に青砥~日暮里間を、1933(昭和8)年には日暮里~上野公園(現・京成上野)間を開通させます。これが現在の京成本線であり、東京から郊外へ延びる私鉄としては初めて、山手線の内側への乗り入れを実現しました。

     こうして都心乗り入れを果たしたことで、白鬚線は存在価値を失ってしまい、早々に廃止されました。なお戦後、京成押上線は都営地下鉄浅草線の開通とともに、日本初となる郊外私鉄と地下鉄との相互直通運転を開始し、京成線は都心側が上野発着と、地下鉄浅草線直通のダブルルートとなって現在に至ります。

    https://news.yahoo.co.jp/articles/4262b45f300612a88edc04c6816183f744139d1a
    3/28(日) 14:10配信


    (出典 contents.trafficnews.jp)

    http://farm5.static.fli*r.com/4145/5185259665_0f6f432e87.jpg


    (出典 i.imgur.com)


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    意外なところに廃線跡がある。

    廃線となった鉄道の線路が道路に転用され、その跡をたどれるケースがあります。東京の街なかにも、そうした「元・線路」の小さな道がいくつも隠れています。

    気づかない? そこはかつての線路

    廃線となった鉄道の線路は、しばらくそのままになっていたり、車道などに転用されたりすることもあれば、自転車道や遊歩道として整備されていたりすることもあります。とはいえ、時間が経つにつれ、線路があった頃の記憶は人々から薄れていくことでしょう。

    一方で、そうした線路の痕跡をたどる廃線めぐりは、様々な楽しみ方がある鉄道ファンの趣味のひとつとしても広く認知されています。今回は東京の街の風景に隠れた「元・線路」の小道を5つ紹介します。

    新宿ゴールデン街の廃線跡:新宿遊歩道公園「四季の路」

    日本一歓楽街・新宿歌舞伎町の東側に、小さな飲食店が密集し文化人が夜な夜な集うともいわれる「新宿ゴールデン街」があります。「四季の路」は、靖国通りの新宿区役所前交差点から斜めに伸び、このゴールデン街の横を貫く遊歩道です。

    ここはもともと、都電の線路です。靖国通りから都電の大久保車庫へ向かう引き込み線のような存在でした。1970(昭和45)年に廃止され、線路跡の一部は遊歩道になり、明治通りの東側にあった大久保車庫は、新宿文化センターに生まれ変わりました。

    上水の跡は鉄道の跡でもある:玉川上水旧水路緑道

    ゴールデン街から新宿駅を挟んで反対の南西側にも、廃線跡を整備した緑道があります。かつて新宿から玉川上水に沿って地上を走っていた京王線の跡で、現在は上水と京王線とも、この緑道の下を通っています。

    地上時代の京王線は、新宿駅から甲州街道上を走り、文化学園の近くで甲州街道から離れ、上水沿いを走っていました。文化学園付近では、甲州街道沿いに立ち並ぶ妙に細長い建物や、道路の切り回しに、かつての線路敷の名残を感じられます。

    なお玉川上水旧水路緑道については、渋谷区が再整備を検討しています。

    国鉄の廃線、「軍都」の廃線、壮大な廃線跡緑道も

    やや郊外のエリアにも、街なかの廃線跡が存在します。

    中央線からカーブを描く線形がアヤシイ:堀合緑道・グリーンパーク緑道

    中央線三鷹駅付近の地図を見ると、駅の西側から分岐するようにカーブを描き、北東方向へ向かっている小道があります。これはかつての中央線の支線「武蔵野競技場線」の廃線跡で、大部分が堀合緑道(三鷹市)、グリーンパーク緑道(武蔵野市内)として整備されています。

    この路線は、戦時中にあった中島飛行機の工場への引き込み線跡を活用したもので、工場跡の一角に「グリーンパーク野球場」が造られたのを機に、その旅客輸送を目的として国鉄が1951(昭和26)年に開業、中央線から列車を運行しました。

    グリーンパーク野球場国鉄スワローズヤクルトスワローズの前身)が本拠地としたものの、わずか1シーズンで閉鎖、武蔵野競技場線も3年後に廃止されました。中島飛行機工場や球場の跡地は、都立武蔵野中央公園などになっています。

    神社の参道も実は廃線跡:赤羽緑道公園

    赤羽駅西側の赤羽台には東京でも有数の一大団地が形成されていますが、その高台のふもとに沿うような形で、JR線付近から南西方向へカーブしながら続いているのが赤羽緑道公園です。

    緑道は、かつての陸軍兵器補給廠専用線の廃線跡に整備されています。戦前の赤羽台から桐ケ丘、板橋方面にかけて旧日本陸軍の施設が広がっており、もとは国鉄線からそこへ物資を運ぶための専用線でした。緑道には線路を模したような路面のデザインなど、廃線跡を感じられる仕掛けが随所に見られます。ちなみに、埼京線東北本線に挟まれた位置に鎮座する赤羽八幡神社の参道の一部も、かつての専用線跡です。

    江東区を南北に:亀戸・大島・南砂緑道公園

    亀戸駅前の京葉道路国道14号)から、南へ「亀戸緑道公園」がまっすぐ延びています。首都高の下を過ぎ「大島緑道公園」と名を変え、新大橋通りを過ぎると蛇行して明治通りへと続きます。その明治通りを1.5kmほど南下した南砂三丁目付近に、再び緑道の入口がありますが、これが「南砂緑道公園」で、大きなカーブを描いてさらに南の永代通りへと続いています。

    これらはいずれも、都電砂町線の跡。錦糸堀から逆コの字型を描くようにして日本橋までを結んだ38系統が通っていました。さらに歴史を遡ると、この路線は城東電気軌道という私鉄が開業したものです。

    緑道にはレールのモニュメントや、実際の都電車両の車輪などがあり、都電の面影を伝えています。また、南砂緑道公園はJRの貨物線(越中島線)の下をくぐりますが、そこには「城東電軌こ線ガード」と書かれたJRの看板もあり、私鉄時代からの歴史をしのぶことができます。

    ※一部修正しました(3月21日11時15分)。

    新宿ゴールデン街に通じる「四季の路」。都電の廃線跡(乗りものニュース編集部撮影)。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【やっぱり廃線跡だった! 東京「鉄道ファン目線でアヤシイ小道」5選】の続きを読む



    (出典 i.ytimg.com)


    歴史的に貴重なものです。

    1 みの ★ :2021/02/03(水) 12:29:27.86 ID:FAs4CDdq9.net

     日本考古学協会は3日までに、1872年に日本で初めて鉄道が開業する際に造られ、東京都港区の高輪ゲートウェイ駅周辺で出土した「高輪築堤」の遺構を現地で全面的に保存するよう求める要望書を、JR東日本や国土交通省に提出したと明らかにした。15日までの回答を求めている。

     要望書は高輪築堤について「当時の最先端の土木工学を駆使したもので、日本の鉄道文化の始まり」と説明。「国史跡か国特別史跡に相当する」とし、福岡など8県で構成する世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」と比べても「何ら遜色ない」として、JR東が表明している一部の現地保存や移築保存では不十分と訴えている。

     文化庁や東京都などにも要望書を提出した。

    …続きはソースで。
    https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG028AJ0S1A200C2000000
    2021年2月3日 9時06分


    【【日本経済新聞(共同通信)】明治の鉄道遺構「高輪築堤」全面保存を求める要望書 高層ビルなどの建設予定地だったが…】の続きを読む



    (出典 www.sankei.com)


    廃線跡には歴史を感じることも。

    大船駅の南側に、かつてJR東日本の車両工場がありました。現在、引き込み線や工場跡地などに、その痕跡を見ることができます。

    横須賀線の線路から分岐する「錆び付いた線路」

    神奈川県鎌倉市に、細長い空き地が断続的に2km近く続いている箇所があります。空き地は大船駅南側、横須賀線の線路から分かれる形で西へと続いていることからも、廃線跡とうかがえるもので、湘南モノレールの真下にも存在します。

    これは、かつて「大船工場」と呼ばれたJR東日本の施設への引き込み線跡です。車両の製造から検査までを担当していた施設でした。

    大船工場は戦後すぐの1945(昭和20)年、大井工場(現・東京総合車両センター)の分工場として誕生。以後、2006(平成18)年に廃止されるまで、ここで鉄道車両の検査や修繕が行われてきました。大宮工場(現・大宮総合車両センター)、大井工場と並び、首都圏の国鉄・JR鉄道車両を支える重要な拠点だったのです。

    空き地は線路跡であることを主張するように、コンクリートと板で組まれた柵で囲まれているほか、バラスト(砂利)が残っているところもあります。また途中には、踏切の存在を匂わせるオレンジと黒の「トラ柄」のフェンスや、踏み板も見られました。横須賀線との分岐点から数十mほどは、赤さびた線路や架線柱もそのまま残されています。

    横須賀線付近から西へまっすぐ延びた廃線跡は、柏尾川の河岸でカーブ。この先には、今までと比べものにならないほど、広大な空地が広がっていました。施設はすべて撤去されていますが、これが、かつての大船工場の跡地です。

    JR発足後、ここで車両の製造が行われていたことがあります。通勤電車として活躍する205系209系も、一部がこの大船で生まれ、引き込み線を通ってデビューしていったのです。

    なお、2006(平成18)年の工場廃止から15年近い時を経て、この敷地の再開発が始まりました。現在は一部が「湘南深沢ワン・パーク」として整備され、バーベキュー場やドッグランなどが設置されています。

    大船工場の引き込み線の廃線跡。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【モノレールの真下に廃線跡!かつては首都圏「三大車両工場」の一翼「大船工場」の今】の続きを読む




    (出典 contents.trafficnews.jp)


    線路が残っている。

    日本各地に残る廃線跡ですが、都内にもはっきりとしたものが存在。その一つが「北王子貨物線」で、踏切や線路が今も現地に残っています。この廃線跡の現状を見てきました。

    都心からすぐそばにある廃線跡

    鉄道が廃止になったあと、線路や鉄道施設などの遺構が残されたいわゆる「廃線跡」が、各地に存在しています。実は東京都内にも、廃線跡がいくつかあります。その中の一つが、北区に残る「北王子貨物線」の廃線跡です。

    この廃線跡は、京浜東北線の王子駅から、北東の住宅地の中へ分岐していきます。駅から5分ほど歩くと、閉鎖された踏切が見えてきました。フェンスに囲まれた狭い一帯が、王子駅の方角から、高層マンションに向かって伸びていきます。雑草に覆われ、緩やかなカーブを描くこの細長い敷地が、北王子貨物線の廃線跡です。

    北王子貨物線は、王子製紙(現在の日本製紙)が敷設した専用線を由来とします。1927(昭和2)年に国鉄の所有となった後も、生産された紙製品を輸送する貨物列車が走り続けましたが、2014(平成26)年に運行を終了しました。

    かつてヤードがあった北王子貨物駅にはマンションが建ち並んでおり、一見しただけではかつての面影はありません。しかし現地を歩いてみると、当時の線路が路面に埋められた形でそのまま残っています。中には、「8:10」「9:50」……といった文字が刻まれた銘板が、路面に埋設されています。これは貨物列車の通過時刻。この地と貨物線の関わりをしのぶ光景となっています。

    現在、フェンスに囲われたままになっている廃線跡の再活用について、具体的な話はまだありません。神奈川県大和市では2021年3月、米軍厚木基地の専用線跡が完全に撤去される見込みです。時代を越えて鉄路の記憶を伝える廃線跡ですが、残された時間はさほど長くないのかもしれません。

    「北王子貨物線」の廃線跡。雑草に埋もれる前(2018年12月、乗りものニュース編集部撮影。)


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【東京の住宅街に潜む廃線「北王子貨物線」を巡る 鳴らない踏切 埋もれた線路】の続きを読む

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